Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:11 p.m. No.132860   🗄️.is 🔗kun   >>2861

Originally posted at >>>/qresearch/20467848 (241518ZFEB24) Notable: GOLD WARRIORS "金の戦士" 【5】【6】

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>>132858

 

皇太子たちの後ろには、秩父の軍部職員と技術者たちが、1930年代に世界中で製造された醜い黒いセダンのような、普通の日産セダン6台に乗ってやってきた。そのあとをトラック3台分の重武装した皇宮警察が続いた。皇太子たちは、マニラ大聖堂、サン・オーガスティン教会、サンチャゴ砦、マッキンリー砦、サント・トーマス大学に特に関心を寄せていた。彼らは、これらの歴史的建造物のそれぞれに宝物保管庫を作る方法を見つけ、その宝物保管庫を新しいメイントンネルに支坑で接続することによって、目に見えないようにすることを望んでいた。秩父の技術者たちは、マニラの大きな地図を用意し、そこにすべての候補地が記されていた。その地図には、メイントンネルのルートが示され、将来の各ヴォールトへの小さなアクセストンネルを建設する必要がある場所が示されていた。宝物保管庫が偶然発見されたり、大砲や空爆の直撃を受けたり、将来同じ場所に建設されたりするのを避けることが主な考慮事項だった。ジュネーブ条約は病院、学校、捕虜収容所、教会、歴史的記念碑への爆撃を禁じているため、これらの場所に宝物保管庫を作ることが最善の保険となった。さらに念のため、各宝物保管庫は爆弾が貫通できないほどの深さ(約90フィート)に作られた。これらの保管庫は、将来、掘削、杭打ち、水掘削などの工事中に発見されるかもしれない。そのため、彼らは歴史的な記念碑の下など、将来の建築プロジェクトが立ち入り禁止になるような場所を選び、また既存の水源に近い場所も選んだ。アカシアの大木の近くなど、妙に詩的な選択もある。秩父宮の弟である三笠宮は、一族の中東問題の専門家だった。アカシアの木は聖書の中でメシア復活のしるしとして言及されている。アカシアは根が深いため、干ばつで枯れたり、台風で根こそぎ倒れたりすることはない。皇太子たちが最初に訪れた場所のひとつは、マッキンリー砦にあるマッカーサー元帥の司令部だった。マッカーサーの空襲用シェルターは、司令部の建物の前にある芝生に覆われた四角形の60フィート下にあった。コンクリートの階段が2段続き、鉄筋コンクリートの大きな部屋が3つあった。マッキンリー砦の将校クラブは、なだらかな尾根の一端に建てられており、遠くの海からの涼しい風を楽しむことができた。この尾根の片側にはテニスコートがあり、反対側にはパレード場があった。ゴールデン・リリーのメイン・トンネルは、パレード・グラウンドの下に掘られ、将校クラブの下の丘に掘られることになった。マッカーサーの防空壕へと続くコンクリートの階段の下で、新しいトンネルは左へ100フィート(約1.6メートル)ほど進み、将校クラブのプールの真下に出る。プールの真下90フィートの深さで、秩父は小さな宝物庫の掘削を命じた。丘は固い岩だったので、支保工は必要なかった。

イントラムロス内では、サン・オーガスティン教会とその隣にある修道院にいくつかの宝物保管庫を設置することが決定された。どちらも16世紀、不運に終わったスペイン艦隊をエリザベス朝時代のイギリスに送ったフィリップ2世の統治時代に建てられた。教会はマニラの東で切り出された切石で建てられた。教会の地下には、司祭、貴族、裕福な庶民の遺骨を納めた地下墓地があった。回廊の中庭には、熱帯植物が植えられた庭園があり、巨大な石の花の形をした噴水を取り囲んでいた。両側のアーチ型の通路の壁には、フィリピン人の群れを世話する司祭たちを描いた、幅6フィート、高さ8フィートの大きな油絵が26枚飾られていた。

教会の横には修道院があった。皇太子たちが1942年に訪れたとき、修道院は宗教的な聖遺物、聖人の像、豪華な司祭服でごった返していた。レシビドール(大広間)は長さ150フィート、幅50フィートで、一番奥には大階段があった。一方の壁には、地下墓地へと続く狭い階段があった。

父のサン・オーガスティン計画はすぐに具体化した。教会の回廊にある石の噴水は、ゴールデンリリーのメイントンネルが始まるサンタ・ルチア門から400メートルも離れていた。門から分岐トンネルを掘り、この泉の真下に宝物庫を作ることにした。宝物庫は30フィート四方で、金と美術品がぎっしりと詰まっている。マッカーサーのプールの下にある金庫のように、サン・オーガスティンの噴水の下にあるこの金庫は、将来にわたって安全であろう。

噴水の下からは、教会のカタコンベの下、フアン・デ・マシアス神父の地下墓地の真下に、もう一つのトンネルが掘られる。そこには、鉄筋コンクリートを敷き詰めた20フィート×30フィートの丸天井が作られる。この2つの保管庫が財宝で満たされると、そのアクセス・トンネルの入り口は超硬質セラミック・コンクリート化合物で封鎖され、見えなくなる。

 

ゴールデン・リリーは日本のセラミックの専門家を起用し、驚異的な硬度のコンクリートを作り上げた。セメントの栓をトンネルの壁の通常の部分に似せて成形し、その合成物を顔料と地元の土で着色することで、入り口は周囲の環境に完全に溶け込んだ。分岐トンネルの入り口が存在するとは誰も想像できないだろう。ロバート・カーティスが発見したのは、彼がオリジナルの地図を持っていたからだ。

サン・オーガスティン教会に隣接する修道院のレシビドールも宝物庫となった。スペイン人が最初にこの巨大な部屋を建設したとき、天井と、その上に追加された床と屋根の重量を支えるために、彼らの石工たちは巨大な切り石のアーチを奥の3分の2のところに取り付けた。秩父は教会の裏の敷地で、同じ淡い灰色の切り石の山を見つけた。ゴールデンリリーの石工たちは、これらの石と同じようなモルタルを使ってアーチを埋め、頑丈な壁にした。これでレシビドールの3分の1が閉ざされ、20フィート×50フィートの宝物庫ができた。レシビドールは公共のスペースではなく、修道院の住民のためだけのものだった。そのため、それがどのようなものかを知る人はあまりいなかった。しかし、修道院の現在の住人は部屋が変わったことに気づくだろうから、憲兵隊にはレシビドールに詳しい神父や教会の労働者を皆殺しにする仕事が与えられた。一方、教会の文書館や記録館では、関連文書や図面がすべて捜索された。これらは焼却され、記録係は刺殺された。(アメリカ軍がマニラを奪還したとき、修道院の地下の浅い墓穴から聖職者服を着た45人の死体が発見された。ほとんどの死体は手を後ろに縛られ、銃声で注意を引くのを避けるために銃剣で殺されていた)

秩父宮はユーモアを交えて他の王子たちを巨大な油絵が飾られた回廊の通路に案内し、「原住民を祝福する聖アウグスティヌス」と題された絵の前で立ち止まった。聖人は右手を上げ、新しいレシビドールの宝物庫の方向を指さしているようだった。秩父は側近に命じて、その手に指を一本余分に描かせ、偽装された入り口を直接指し示させた。この場所の施工図を作成した技師は、聖人の6本目の指を支点とした。(これは「六本指サイト」として知られるようになった)。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:11 p.m. No.132861   🗄️.is 🔗kun   >>2864

Originally posted at >>>/qresearch/20467855 (241520ZFEB24) Notable: GOLD WARRIORS "金の戦士" 【5】【6】

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>>132860

 

次に、王子たちは近くのマニラ大聖堂に目を向け、2つの場所を選んだ。ひとつは大聖堂の前にある大きなアカシアの木の下に、もうひとつは祭壇の真下に掘られた。王子たちは、将来誰も祭壇の下を掘ることはないだろうと確信していた。両方のヴォールトは、サン・オーガスティン教会の石造りの噴水の下から枝分かれしたトンネルを通って掘られた。

リサール通りにあるサント・トーマス大学で、彼らは大きな地下室を見つけ、その一端を閉鎖して実質的な宝物室を作ることにした。この建物は、女性や子どもを含むアメリカ民間人の収容所であったため、爆弾から安全であった。赤十字が米軍に通告したため、大学は爆撃機の立ち入り禁止区域となった。その後、王子たちはサンチャゴ砦を構成するすべての建物と敷地を視察した。憲兵隊の本部はどこでも仕事ができる。いくつかの隠れ家が選ばれた。一つはサンチャゴ砦の前庭にある大きな噴水の下だ。マニラ大聖堂のアカシアの木の丸天井から枝のトンネルを通って行く。(1980年代、トレジャーハンターがこの噴水の下に3インチの穴を開けた。その穴を掘ったとき、腐敗した死体のガスが彼らを病気にした。連合軍捕虜は1943年に35マイルのトンネルのその端に生き埋めにされていた。サンチャゴ砦は臭いが消えるまで1週間閉鎖された)

サンチャゴ砦の2番目の隠れ家は、スペイン人将校の中庭にあるアカシアの木の下で、殉教した19世紀の詩人・小説家ホセ・リサールの記念碑のそばにあった。(この丸天井は1985年にイメルダ・マルコスに忠誠を誓う軍部隊によって回収された。1942年当時、4000人以上のアメリカ人とフィリピン人の捕虜がサンチャゴ砦の地下牢に監禁され、死刑になる前に尋問された。何千人もの洗われていない捕虜とくすぶった死体の臭いが、砦に独特の香りを与えた。パシグ川沿いの集団墓地は1942年にはすでに満杯だったため、憲兵隊はほとんどの死体をトラックで湾岸まで運び、はしけに積んでマニラ湾に捨てた。潮の流れによって、死体はコレヒドールを過ぎ、南シナ海へと運ばれた。砦の主要構造物には3つの地下牢があり、それぞれが低層階にあった。最も深い地下3階はパシッグ川の水面下にあった。毎日、一度に200人がこの地下牢に押し込められ、弁を開けて水を入れた飢えた男たちがパニックに陥って溺死するという恐ろしい死に方だったが、弾薬の節約にはなった。彼らが死ぬと、他の囚人たちが古いビルジポンプを使って水を排除した。

 

北側の地下室2は60フィート×120フィートともっと広く、処刑室として知られていた。サンチャゴ砦の囚人のほとんどは、ここで憲兵隊に尋問の過程で個別に殺害された。帝国の戦利品が優先されたため、秩父宮は地下牢を空にし、臭いを消すために水をかけるよう命じた。それが終わると、彼は検査のために戻ってきた。ここで秩父宮は、水面下に落とし穴を作るよう命じた。坑道が掘られる間、数百人の捕虜が土嚢の壁を維持し、川の水の流入に対して手押しポンプを操作した。穴の底は古い枕木で覆われ、その上に赤い色の大理石の板が敷かれた。大理石の板の上には木枠が置かれ、木枠の中には金の延べ棒が詰められた。そして、穴を掘った捕虜たちは殺され、彼らの遺体の上に土を積み上げ、コンクリート板を打ち、通常の地下室の床の高さまで埋めた。次は地下3階だ。ダト・スリマンの砦が最初に改造されたとき、スペイン人は4つのエアシャフトを作った。最も大きなものは、最も深い地下牢へと続いていた。ゴールデン・リリーの技術者によって拡張され、補強された。ここは、マニラの各銀行や戦前のフィリピンの中央銀行であったインテンデンシアから持ち出されたモスラーの金庫の保管場所となった。空っぽのまま、この大きな金庫22個が最大のエアシャフトから土の床に下ろされた。金庫は75キロの金塊で満たされた。その後、金庫は施錠された。地下室2と同様、全体の上に厚さ1フィートのコンクリートスラブが敷かれた。別のモスラー金庫が運び込まれた時、捕虜たちは緩い岩と土で通気口を埋め始めた。大急ぎでこの金庫を埋め戻しの上に降ろし、さらに土と岩を加え、別のコンクリートスラブを打った。砦の平らな屋根の上には、最大のエアシャフトの上部が再建され、スペイン時代に切り出されたオリジナルの石で塞がれた。(1970年代後半、これらのモスラー製金庫は、マルコス大統領のために、彼の弟子であるギル・ガディ博士が率いるチームによって回収された)

残りの小さなエアシャフトのひとつには、金の延べ棒の入った箱が降ろされ、金貨と銀貨の入ったドラム缶が続いた。このシャフトには超微細な砂が詰められ、固く固められ、屋根の高さのすぐ下に厚さ5フィートの鉄筋コンクリートの板で蓋がされた。もし誰かが横からエア・シャフトを掘れば、超微細な砂が陥没して生き埋めになってしまうだろう。簡単に割れる青酸カリの小さなガラス瓶が砂に混ぜられていた。サンチャゴ砦の隠し場所は他に2つあった。ひとつは地下の部屋にあった。もうひとつは雨水貯水池。もうひとつは、スリマンの宮殿の基礎にある雨水貯水槽だった。

 

秩父宮殿下と彼の技術者たちによるこのような計画は、建設段階の「ブルーシリーズ」の技術図面に発展させるのに何週間もかかった。最終的には、日本の地図製作者によってコード化された復興地図が描かれた。後日、この「赤色系列」の回収地図が、日本チームを各現場まで案内し、深さを判断する支点や、ブービートラップを回避して回収するために不可欠なその他のデータを与えることになる。この赤いシリーズの地図は、日本の軍隊にいたことのある人なら誰でも知っている風刺画のような形で描かれた、日本独特のものだった。山、川、木、道などの地形が黒板に描かれたように表現されていた。それぞれの地図には、1110億円、7770億円、8880億円など、その金庫に収められている財宝の総額のようなものが大きく記されていた(常に円マーク付き)。

実際、他の地図記号と同様、これは暗号に過ぎない。実際にどれだけ隠されていたかを知るには、鍵が必要だった。例えば、ゼロを6つ取り除く必要があるかもしれない。地図にある他の記号やシンボルも同じように混乱している。推測できるのは、777の敷地は111の敷地よりも広いということだけだ。これらの地図には、カナ(アルファベット)や漢字(中国語の表意文字)など、さまざまな文字で書かれた注記があった。また、英米の大学で訓練を受けた日本人技術者が書いた英語の碑文もあった。暗号化の鍵のひとつは、地図を真正面から見るべきか、鏡で反転させるべきかを示す左右に翻る旗であり、深さと方位を示す時計の文字盤であり、その場所のすべての測定の開始点を示す支点であった。支点を示す地図がなければ、どこを掘ればいいのかわからない。(30年後、例えば、マルコス大統領は2,000人の兵士にマニラ地下35マイルのトンネルを2年以上捜索させたが、トンネル内に放置された軍用トラックの荷台から75キロの金の延べ棒が発見された以外は、空振りに終わった。マルコスは地図を理解していなかった)

 

このような技術的な詳細が、悲劇的な人的犠牲を見えにくくしている。最も過酷な条件下で働く連合軍捕虜たちが、これらのトンネルや地下壕を掘った。特殊な作業には、同じ場所で働く連合軍捕虜と直接意思疎通ができないため、朝鮮人や中国人の奴隷労働者が使われた。例外なく、宝物庫が埋められ、封印されるたびに、捕虜と奴隷労働者は、沈黙を保証するために、中に生き埋めにされたと目撃者は語った。神道の司祭たちは、死者の霊がその場所を守っていることを確認するために、木の枝でできた杖を振りながら、それぞれの場所に祝福を与えた。この大量殺人の本当の目的は、厳重な警備だった。何千人ものオランダ人、イギリス人、オーストラリア人、カナダ人、ニュージーランド人、アメリカ人捕虜がマニラの地下に消え去り、二度と日の目を見ることはなかった。マニラの南東にあるテレサの一カ所だけで、連合軍捕虜1,200人が生き埋めにされたという目撃証言がある(第11章参照)。1975年10月、ロバート・カーティスによってテレサが公開されたとき、犠牲者の身元を確認するため、坑道内の遺体の中から何百ものドッグタグを集めようとした彼の努力は、警備の男たちに銃口を突きつけられて阻止され、現場から立ち去ることを余儀なくされた。1942年8月には雨が降り、秩父は6ヶ月間マニラに滞在し、マッカーサー元帥のマニラ・ホテルのペントハウスに住んでいた。マッカーサー元帥の本など、私物の多くがそのまま残されていた。窓からは15番埠頭が見渡せ、大きな湾の向こうにバターンの素晴らしい夕日が見えた。しかし、秩父は結核に悩まされることの少なかったシンガポールに逃れた。

日本の略奪の総量を測る一つの尺度は、マニラに作られたこれらすべての宝物保管庫とコレヒドールのトンネルだけでは不十分だったということだ。他の宝物庫はミンダナオ島やミンドロ島、列島の他の島々にも掘られていた。そしてマニラ北部の山間部では、別の皇太子が天然の洞窟を拡大し、日本国外では戦時中最大の宝物庫を作るために懸命に働いていた

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:11 p.m. No.132862   🗄️.is 🔗kun   >>3140

Originally posted at >>>/qresearch/20471100 (250021ZFEB24) Notable: 岸田首相 復旧・復興加速で予備費から約1000億円追加支出へ

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岸田首相 復旧・復興加速で予備費から約1000億円追加支出へ

2024年2月24日

 

能登半島地震の対応をめぐり、岸田総理大臣は復旧・復興を加速させるため、今年度の予備費からおよそ1000億円を追加で支出する考えを明らかにしました。被災した高齢者世帯などに最大300万円程度を支給する支援策の対象に、住宅の再建が厳しい現役世代も加える方針です。

 

岸田総理大臣は24日、石川県を訪れ、地震で大きな被害を受けた穴水町や輪島市の避難所などを視察し「輪島塗」の事業者など、地域の産業を支える人たちと車座で意見を交わしました。

このあと岸田総理大臣は記者団に対し、被災地の復旧・復興を加速させるため、来週にも今年度の予備費からおよそ1000億円の追加支出を決定する考えを明らかにしました。

 

そして、
▽住宅が半壊以上の被害を受けた高齢者世帯などに最大300万円程度を支給する支援策の対象に、住宅の再建が厳しい現役世代も加える方針です。

また、「輪島塗」などの伝統産業を支援しようと、
▽施設の復旧や道具の確保などに補助金を活用することや、
▽作業を行う仮設の工房を全額国費で建設し、ことし4月から利用できるように準備を進める考えを示しました。

岸田総理大臣は「被災地の皆さんが被災前の笑顔を再び取り戻すことができる日まで、先頭に立って生活やなりわいの再建、地域の再生に全力で取り組んでいきたい」と述べました。

 

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240224/k10014369531000.html

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:11 p.m. No.132863   🗄️.is 🔗kun   >>3143

Originally posted at >>>/qresearch/20471150 (250028ZFEB24) Notable: 米大統領選挙 サウスカロライナ州予備選 トランプ氏 勝利確実

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LIVE: Election Night in South Carolina LIVE from the Trump Campaign Watch Party - 2/24/24

 

https://rumble.com/v4enb2x-february-20-2024.html

 

米大統領選挙 サウスカロライナ州予備選 トランプ氏 勝利確実

2024年2月25日

 

ことし秋のアメリカ大統領選挙に向けた野党・共和党の候補者選びの4つ目の州となる南部サウスカロライナ州の予備選挙で、ABCテレビはトランプ前大統領が勝利を確実にしたと伝えました。トランプ氏を追う、ヘイリー元国連大使の地元の州でも勝利を確実にしたことで、トランプ氏が党の指名獲得に向けて大きく前進しました。

11月のアメリカ大統領選挙に向けた野党・共和党の候補者選びは4つ目の州となる南部サウスカロライナ州で予備選挙が行われました。

日本時間の25日午前9時から開票が行われ、その直後、ABCテレビはトランプ氏が勝利を確実にしたと伝えました。

共和党の候補者選びではトランプ前大統領がここまですべての予備選挙や党員集会で勝利し、獲得した代議員の数で大きくリードしていて、これをヘイリー元国連大使が追う展開となっています。

トランプ氏はヘイリー氏の地元であるサウスカロライナ州でも勝利を確実にしたことで党の指名獲得に向けて大きく前進しました。

ヘイリー氏は今回の予備選挙のあとも撤退はせず、多くの州で候補者選びが一斉に行われる来月5日の「スーパーチューズデー」に向けて選挙戦を続ける考えを示していますが、力を注いできた地元でも敗れたことは大きな痛手で、選挙戦はトランプ氏の優位が一段と際立つ情勢となっています。

 

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240225/k10014369871000.html

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:12 p.m. No.132864   🗄️.is 🔗kun   >>2865 >>2866

Originally posted at >>>/qresearch/20471828 (250300ZFEB24) Notable: GOLD WARRIORS "金の戦士" 【5】【6】

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>>132861

 

小野田少尉の真実

2007-11-06 09:35:20 | GOLD WARRIORS

 

昨日でGoldwarriorsの翻訳を完了した。あとはもう一人に頼んである12章が残っているだけだ。ただし、タイピングと校正でもう少し時間がかかる。今月中に完成させよう。

ところで、第11章の最後に小野田さんが出てきた。ルバング島で生き残っていた小野田さんは真実を語らないままブラジルへ行ってしまった。国民は何も知らないが、今日、真実をここで明らかにしよう。少々長いがしかたがない。読んで欲しい。

前回取り上げた部分を貼り付けよう。

いま「小野田少尉」の告白本を読んでいるが、これが実に興味深い。というのは彼は22歳、昭和十九年の末に参謀本部から秘密の指令を受け静岡からルバングへ赴任した。彼の受けた指令の詳しい内容は今でも秘密だが、要は、戦争が終わっても玉砕はするな、ゲリラ活動をして敵軍の邪魔をしろ。ということだ。

そして、任務を解くには参謀本部の直属の上司からの命令が必要だった。(通常の命令系統とはちがう。)、だから、兄、母、同級生が呼びかけても投降できなかった。(小野田さんは実の兄貴が歌っているのを聞いている。) 上司たちは戦後名前を変え、あるいは所属を隠して生きていた。家族ですら自分の父親が中野学校の出身である事を知らないという。小野田さん、それから今でもフィリピンで戦っている戦士たちは、当時の上司が名乗り出て任務終了を伝達しなければならなかったのだ。自分たちは責任を逃れ、見捨てられた兵士たちは気の毒なものだ。

問題は、その任務だ。ルバング島はマニラ湾の真ん前の島で、確かに戦略的に重要なところだ。しかし、ルソン島自体が占領されてしまえばもう何の意味もない。小野田さんは中野学校で秘密情報部の人間だが、彼にはそこに残る意味があったわけだ。つまり、隠されている隠匿物資の監視だ。参謀本部は戦争終結を見込んで、終戦になっても誰も財宝に近づけないように小野田さんを派遣したのだろう。その任務を解く事が出来る人間は限られていた。フィリピンにはまだ日本兵がいるはずで、彼等はいまだに任務についているのだ。彼等に近づけば必ず銃を撃つだろう。本当に気の毒な事だ。(この内容は、Goldwarriors第十一章に出てくるらしいが、まだ訳していない。もう少しお待ちを)・・・・・以上

 

今日お伝えするのはその十一章の一部からの引用だ。

 

小野田さんに指令を出したのは竹田宮だった、それは竹田宮の従者だったフィリピン人のベン・バルモアが証言している。彼はルバング島で小野田を見ていると言う。そして、竹田宮はベンを連れてルバング島で略奪財宝の隠匿を指示していた。

終戦後、財宝を探しに来る者達から財宝を守るために派遣されていた特殊工作員が小野田たちだった。(当時、その島には三人の日本兵が派遣された。)

だから、彼が発見されたあと、日本は任務解除に谷口義美元大佐を派遣した。その一団の中にこっそり竹田宮が入っている、それはベンがテレビ映像で確認している。つまり、竹田が解除命令を出さなければならなかった。

秘密を握っている小野田は帰国後即座にブラジルへ送られ、ルバング島の発掘が終了するまで護衛に守られていた。(監視されていたと言うべきか。)

ルバング島の発掘は笹川良一だ。彼はマルコスと契約してルバング・リゾート開発をした。どのぐらいの回収をしたのかは不明だが、マルコスはそれを知らなかったと言う。笹川はそれを船舶振興会でロンダリングして自分たちの基金に入れた

これが小野田少尉に関わるすべての真実だ。戦後六十年たっても何も国民は知らない。でも、戦争終了を知っていたにも拘らず、長い間忠実に任務についていた小野田さんの人生とはなんだったんだろう。

捏造の日本歴史研究所で後日アップします。特に重要と思われる章は見る事が出来るようにしています。ぜひご覧ください。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:12 p.m. No.132865   🗄️.is 🔗kun

Originally posted at >>>/qresearch/20471864 (250309ZFEB24) Notable: GOLD WARRIORS "金の戦士" 【5】【6】

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>>132864

 

小野田寛郎(読み)おのだひろお

https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%AF%9B%E9%83%8E-176118

 

旧日本軍の陸軍少尉。太平洋戦争の終結後29年間、終戦を信じずにフィリピン・ルバング島に潜伏して戦い続け、1974年3月に帰還した。帰国後は、ブラジルに移住して牧場を経営した他、キャンプや講演を通じて日本の子どもたちにたくましく生きる力を伝えた。

1922年3月19日、和歌山県亀川村(現・海南市)生まれ。旧制中学校を卒業後、貿易商社に勤めて中国へ渡るが、徴兵されて42年に陸軍に入隊。久留米第一予備士官学校を経て、ゲリラ戦や情報戦を学ぶ陸軍中野学校二俣分校に入り、44年12月にフィリピン戦線に派遣された。45年8月の終戦後も、任務解除命令が届かなかったために仲間と共にルバング島で戦闘を続けた。終戦の情報や投降を呼び掛けるビラも米軍の謀略と疑い、朝鮮戦争やベトナム戦争へ向かう米軍機を見て大陸での戦争継続を確信するなど、終戦を信じなかったという。日本政府は、投降した元日本兵の証言などを基に50年代から何度も残留兵の捜索活動を行ったが発見できず、死亡したと見られていた。72年10月に小野田らがフィリピン警察と銃撃戦になったことで生存が分かり捜索が再開されたが、その後もなかなか見つけられなかった。74年2月、冒険家の日本人青年が接触に成功し、帰国に結び付いた。

帰国の翌年、兄が移住していたブラジルに渡り、原野を切り開いて牧場を始め、10年かけて軌道に乗せた。また、日本で起きた凶悪な少年事件に心を痛めたのをきっかけに、84年から日本で「小野田自然塾」を始めた。89年には財団法人を設立して理事長となり、自身のルバング島の体験を生かしてキャンプを通じた青少年の育成に力を注いだ。2005年に藍綬褒章を受章。14年1月16日、肺炎のため91歳で死去した。

(原田英美  ライター / 2014年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」

 

陸軍軍人,実業家。第二次世界大戦敗戦後も日本の降伏を信じず,フィリピン・ルバング島で30年間ゲリラ戦を続ける。1974年3月にフィリピン軍に投降,日本に帰還した。和歌山県海南市出身。旧制和歌山県立海南中学卒業後,商社に勤務,中華民国漢口に赴任し中国語を習得する。1942年和歌山の歩兵連隊に入隊,1944年久留米第一陸軍予備士官学校に入学するが,中国語と英語の能力があることから選抜され陸軍中野学校二俣分校に入る。ゲリラ戦と諜報戦の教育を受け,陸軍見習士官をへて予備陸軍士官(少尉)に任官される。1944年末第14方面軍(フィリピン防衛を任務とする)情報部付となり,残置諜者及びゲリラ戦指揮を命じられる。この時,陸軍中将横山静雄軍司令官から玉砕せず最後の一兵となっても戦い続けよという訓示を与えられた。日本は占領されても連合軍と戦い続ける,という計画を提示されていたという。帰国後,高度成長末期の日本社会に違和感を持ち,帰国後結婚した妻とともに次兄のいるブラジルに移住,牧場経営に取り組み成功する。1984年私財を投じて子供を自然のなかで教育する小野田自然塾を創設,晩年までブラジルと日本を往復して活動を続けた。

出典 株式会社平凡社

 

[生]1922.3.19. 和歌山,亀川

[没]2014.1.16. 東京

元陸軍軍人。1944年陸軍の中野学校二俣分校を卒業,同 1944年フィリピンに派遣され,遊撃戦指導のためルバング島に渡った。翌 1945年8月の第2次世界大戦の終戦後に任務解除の命令が届かなかったため,降伏命令のびらを敵の謀略と考えて島内に潜行し続けた。1974年日本人青年と遭遇,投降を説得されるが,直属上官の命令がないことを理由に拒否。かつての上官が現地に赴いて任務解除命令をくだし,30年ぶりに日本に帰還した。その生還は平和と高度経済成長に慣れきった日本人に大きな衝撃を与えた。しかし,時代の隔絶による価値観の激変は大きく,マスコミ攻勢にも嫌気が差して 1975年ブラジルに移住,牧場を経営する。また 1989年福島県に小野田自然塾を設立,野外活動を通して青少年の育成を目指した。2004年ブラジルのサントス=デュモン勲章を,2005年藍綬褒章を受章。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:12 p.m. No.132866   🗄️.is 🔗kun   >>2867

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黄金の兵士 第六章 目撃者たち

 

マニラからはるか北方の高原地帯は、険しい山に被われた涼しい静かな村々で、戦争とは遠く離れた別世界だった。ルソンの平野部を出てポンコツバスで登山をし、曲がりくねった穴ぼこだらけの道でサンタフェを目指し、三千フィートのカラボロ山に入っていくと、バスコ湾のスペインバスコ人の国の後にニエバ・ビスカヤと名付けられた地域がみえてくる。最初の山脈を越えると、バヨンボンの町を取り囲む肥沃なカガヤン渓谷に下りてゆくことになる。カガヤンは火山噴火口のようにあちこちに井戸が点在し、少年が水牛をあやつり湿地を耕す米作地域だった。西へ向かうとコルディラ山脈(セントラル山脈)、東はより高所のシエラマドレ山脈に囲まれる。そこは褌だけを身につけた山岳族しか住まない熱帯雨林で覆われている。カガヤン渓谷のバヨンボンから北に向かうとルソンの北端、沿岸の町アパリへ下りていくように広がり、カミギン島と呼ばれる一大オフシュア島へつながっている。

このバヨンボンの静かな高台の周りが一九四二年(昭・十七)~四五年(昭・二〇)、重要なゴールデンリリィーの基地になった。というのも、この地域には自然による洞窟がたくさんあったからだ。石器時代の道具や木炭画を持つ者もいた。地盤は強固ではあったが、上の地層の砂、石炭、沈殿物は急流や地下水によって洗い流され天然の穴や地下金庫を作っていた。この表面は簡単に掘れるものが多く支柱もいらなかった。日本軍は軍事的な目的と財宝の保管のための要求に最適だと認識した。

 

カガヤンからフォルサモまで飛行機なら簡単だ。もちろん日本へは沖縄で給油すれば簡単だ。一九二〇年代と同じで、早くから日本の戦略家達はフィリピンを手中にし、日本帝国の中へ吸収する計画をたてていた。

それから、一九二〇年代の初め、若干名の日本人がルソンに開拓者、実業家、地質学者として接触を始め、日本の漁船は沿岸にますます数を増やしながら出現するようになった。連中は偵察兵や情報員達であった。彼らは南シナ海沿岸付近、バヨンボン、バギオ、アパリを開拓し、そしてタガログ語やイロカノ語を学び、そして誰が成功し、影響力があるかをノートに書き込み、地域のインフラ、道路、公共施設の詳細を収集した。港を海図に書き込み沿岸線の地図を作った。農民の助けをかり、洞窟をみつけては調査をした。当時のバヨンバンには二千人にも満たない住民しかいなかった。農民は一キロから二キロで区分けされている居住区か村に密集して住んでいた。バヨンバン郊外の小さな居住区のひとつにデュラオと呼ばれる所がある。その酋長はソノ・バルモアといい、顔立ちがよく素直で無邪気な十代の甥ベンと一緒に水田で働いていた。ベンは両親がまだマニラの北、湿ったパンガシナン平野に住んでいた一九二五年の三月に生まれた。父はそこで日雇い労働者として仕事をしていた。

 

ベンは子供時代のほとんどをデュラオの伯父の家で過ごし、バヨンハンのカソリック教会へ通った。彼はそこで六年生まで在籍し、読み書き、そしていくらかの英語を「ディズニーの父さん」から教わった。暇な時間は祖父とともに精米をし、春には鳴きながら働く水牛の後ろで畦作りをし、秋には鎌で稲を刈り取っていた。フィリピン人のほとんどはタガログ語を話していたが、イルカノは孤立していたので、ルソン島北岸の乾燥したイルコス地方の方言で話をしていた。バヨンボンやバギオ避暑地、特にマニラにはノロカノの地域があり、自らの政治組織と地下組織をもっていた。

日本軍がフィリピンに侵攻したときベンは十七歳になったところだった。当時、彼の両親はパンガシナンにいたのだが、そこは侵入者の丁度通り道だった。彼の父エステバンはアメリカ軍の新兵時代に射撃事故で片目を失っていた。ほとんどの人は右利きだから、ライフルの使い尽くしたカートリッジは目から離れる右側にはずすように作られている。初めて射撃場に立ったエステバンは左利きなので左肩にライフルを置きそれを撃った。カートリッジは彼の目に直接あたり彼は目を失った。アメリカ軍が占領され、彼は数千名の連合国捕虜の収容所へ行くことになった。アメリカ人と違ってフィリピン旅団はしばらく尋問を受け帰宅を許された。

エステバンが留守の間にパンガシナンの家々は略奪者に燃やされ、彼の家族は無事にデュラオにたどり着けるよう山中へ逃げ込んだ。最年少だったベンは先頭を歩き、母、祖母、兄、妹と続いた。難民と同じで彼らは家財道具を運んでいた。金もないので、数週間も発酵した魚の練り物と米だけを食べていた。日本兵がどこにでもいたので、ベンは多くの質問に答えなければならなかった。多くのフィリピン人が兵隊達に奴隷のように残酷に打たれながら働かされるのを見ていたので大変に怖かった。

 

二月の半ばごろ、彼らはサン・ジョーンズに到着した。日本の駐屯地を通過するのに四日も要したのだ。デュラオに着いたのは真夜中だったが、安堵と幸福感でいっぱいだった。ベンの祖父リノは即座に豚を殺し料理を作った。そして大きな声で「さあ子供達、どんどんお食べ、お腹いっぱいになるまでな!!」

数日後、ベンの父が解放され、彼らと合流した。抱き合って喜びあった。祖父のリノはベンの父にデュラオの農地を与え、戦争中を通じて家族の面倒をみることができた。十ヵ月後の一九四三年一月、彼らは自家用の砂糖やラム酒、飴玉を作るためにサトウキビを刈っていた。ベンは空き缶を火にかけ調理するために枯れた笹を切り出しに行こうと話した。彼は二頭の牛が引く車を連れて大きな笹の自生する近くの丘に上っていった。彼がナタで缶を切り刻んでいると、木の葉のざわめきが聞こえ、日本兵が回りを取り囲んでいたのに驚きおびえた。彼らはヘルメットを笹で偽装し、ベンは銃を彼に押し付け、ベンはナタを捨てて荷車の後ろにうずくまった。将校の足立大佐はベンに対し、まずタガログ語で話しかけ、次にイルカノ語にかえた。

「ここで何をしてるんだ。」「薪を切っとるんだがね。」

「サン・アントニオ地区への道はどこだ?」ベンは指さした。足立はベンにそこまで案内するように命令した。ベンは父の許しがないと行く訳にはいかないと言った。その時点で、ベンは彼らの指導者の言葉を聞いていない。白い服で刈り込まれた頭の若い男がベンに対して親しげに微笑んだ。

二十代の半ばにしかみえないとベンは思った。

 

ところがその集団の中で彼は足立大佐や他の将校達から格別の扱いを受けていた。彼は木と革で作った鞘に入った大きな日本刀を持ち、反対側には短剣を身に付けていた。上着の左胸ポケットには金縁で五―六インチの十字形の模様が入った赤い標章が輝いていた。足立大佐は彼に対してうやうやしくキムスと呼んでいた。彼らがデュラオのバルモア家に戻ってくると父は彼を仕事にもどそうとした。しかし祖父はベンにとってサン・アントニオへ案内することのほうが賢明だろうと言った。サン・アントニオへの道中、将校は彼といっしょに水牛の運搬車に乗っていた。ベンは殺されると確信していた。涙が頬をつたった。大佐がどうしたのかと聞いた。大佐はベンにやさしく微笑み、恐ろしくはないよと語った。彼らはベンを傷つけたりはしないだろう。一行が椰子の木の前で止まると、ベンは素早く駆け上りいくつかの椰子の実をとり斧で開いてやった。彼らはベンに名前を尋ねた。彼は「ベン・ハー・ミーン」だと、タガログ語とイロカノ語で伝えた。

キムスは日本語で何やら話し、足立はベンに、もはやサン・アントニオへ行く気はなく、メインキャンプのある反対方向のサン・フェルナンドへ引き返したいと言った。ベンは再び父の許しを得なければならないと答えた。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:13 p.m. No.132867   🗄️.is 🔗kun   >>2868

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このことがキムスに感銘を与えたようで、再び彼らはベンの家にもどった。父は今度も抗議したが、日本軍はもう一週間だけベンを借りたいと申し出た。彼らはベンにバナナの葉で外出用の衣服を包み持ってくるように言った。サン・フェルナンドへ向かう途中、1.5kmぐらい離れた森の中で女性の悲鳴が聞こえた。キムスとベンは荷車から飛び降り、何事か調べるため走った。二人の日本兵が村の娘の服を剥ぎ取り強姦しようとしていた。キムスは刀を抜き、二人の兵士を刃の横でピシッとたたいた。男達はしゃがみ込み顔を土にすりつけ助けを求めた。キムスは叱りつけた。彼らは直立不動で聞き震えていた。

将校達は「ハイ」としか言わない。キムスは二人を逮捕させた。キムスは自分の上着を娘に与え家まで送るように部下に命じた。

 

後日、サン・フェルナンドのキャンプに集団が到着した時、彼らが入口に入るとともに日本人全員がお辞儀するのにはビックリした。足立大佐はキャンプの全員をよびよせた。キムスは二人の強姦犯に厳しい処罰を加え、決してフィリピン人とセックスしてはならない、もしすれば死罪にすると命じた。キャンプ中の誰もが呆然となった。大佐は正に「キムス」と言った。キムスは大きな将校の一団と鉱山技師、地理学者、物理学者、建築家、科学者、陶器専門家、電気、爆薬などの数百人の男達と一大隊の兵士を従えていた。サン・フェルナンドには千人をはるかにこえる人間がいたが、その仕事は唯、略奪品の運搬と隠匿だけであった。

ベンは金属製の数千の箱と木製の箱を見た。それはとても重たそうだった。箱を運ぶ時、四―五名あるいは八人がかりで、革で編んだような帯を使っていた。ある時、ベンは真っ裸の朝鮮人、中国人、フィリピンの奴隷労働者数百人が目隠しをして箱を動かしているのをみた。彼らは足首に鎖がまかれ、手首は、つるはしやシャベルを使うことができる程度にロープでつながれていたので、ベンには彼らが奴隷であることがわかった。重い荷物を積んだトラックがひっきりなしにサン・フェルドナンドキャンプに到着し、荷を降ろすとトラックの男達はどこかへ行ってしまった。キムスの兵隊と労働者達は、その箱を地下道や深い穴あるいはカバヤン渓谷に点在する洞窟へ運んだ。ベンはフィリピン人がトラックの箱を持ってきて道路の横に積み上げるのを見たことがあった。フィリピン人が行ってしまうと、日本兵は箱を洞穴の中へ運んだ。兵士達は離れるように命じられ、中国人労働者がそれを深い洞窟の中で積み上げ土で覆い、その地域特有の平らな石炭や成長の早いパパイヤの木、笹の葉などで偽装した。いくつかの坑道をベンは案内され見ているが、キムスの技術者達によって広げられた大きな洞窟もあった。最初、何が行われているのかベンには全くわからなかった。暴力沙汰もほとんど見ていないから日本人との生活は怖くないというよりむしろ不気味であった。

 

ベンはキムスの水汲み、食事、召使、付き人になり、食事をもってきたり靴を磨いたり洗濯したり、キムスの洋服に気をつかい、清潔さを保つことを覚えていった。キムスはキャンプの中でテントではなく真ん中の立派な家に住んでいた。サン・フェルナンド地域のフィリピン人住民はすべて追い出されていた。キムスの家には大きなベッドの寝室があり、東南アジアのどこかで略奪してきたであろう真鍮製の足で支えられた堂々たるタイ製のテーブルがあった。ベンはあるものをみて、それは瓶でありキムスがそれで顔を洗うのだろうと思った。ところがそれは単に飾りであって、うっとりとながめるものだったのだ。

夜になると枕をベッドの真ん中におき、ベンに床ではなくて片側で寝るように命じた。キムスは反対側で眠った。ベンに決して枕に触れぬように警告し、仮に、もしそうしたら爪でのどを欠き切るぞと言った。最初は全く動けないので落ち着かない夜を過ごしたベンだったが、後にはなれてしまった。

ベンは十八歳のハンサムな男だったが、キムスは三十歳、洗練されていてむしろベンより若くみえるほどであった。日本人の貴族達にとって彼に対して同性愛の味を感じることは異常なことではなかったであろう。その可能性を排除できないし、ベンとご主人様との間に性的な関係があったかどうかいかなる証拠もでてはいない。

日本の貴族社会において身近に私的な召使を寝させ、命ぜられれば何でも答えるのは普通のことだった。キムスはベンの無邪気さ誠実さそして両親、兄弟への愛情を認め格別に彼を好んでいた。数千の兵士達の真ん中にいて、多くの奴隷達をそばにおいていながらキムスは完全にひとりぼっちだった。ほとんどの農奴は彼の顔を見上げただけで眼がつぶされると恐れていた。

そんな完全なる孤独の中で彼はベンの存在を弟の様に思い、その性格のよさを喜んでいた。キムスも足立大佐も他の日本人から彼を守り、ルソンの他の地域やフィリピンの別の島へも連れて行き丁寧に扱った。

 

ベンが言うには、多くの将校や兵士はフィリピン人を、又特に連合軍捕虜に対しては怒るように、そして残酷にふるまったそうである。

しかしキムスには暴力を避けた。ベンは言った。「キムスはいつも僕に自分の食べ物をくれたよ、チキン、豚肉、牛肉、缶詰の鰯とかね。」

キムスの作法は優雅だし、紳士的だった。彼の話し方はやさしく、じっくり話を聞いてくれた。まわりに誰もいない時はベンに英語で喋った。ある時、一匹狼のフィリピン人ゲリラが捕まりサン・フェルナンドのキャンプに引っ張られてきた。キムスの側近である川端旅団長と鏑木大佐は銃殺するつもりだったが、キムスが解放してしまった。ゲリラは頭のてっぺんから悲鳴をあげて逃げ去った。きっと後ろから銃撃されるのが恐ろしかったのだろう。日本軍全員がそのこっけいな姿を見て笑っていた。

 

一ヶ月が過ぎた頃、ベンは勇気をだして足立大佐に、何故キムスは他の人と違っているのですかと尋ねた。足立はいとも簡単に答えた。「彼は殿下だからな。」キムスがこのやりとりを聞き別の部屋から入ってきた。微笑みながら、彼は人差し指を二つ合わせて英語で話した。「裕仁と私はそういう人間だよ。」ベンは聞く、「それじゃあ裕仁天皇の弟なの?」、キムスは答えた。「いや、それは秩父だ。私は従兄弟だよ。」

プライベートな会話の後でキムスはベンに秘密の名前は竹田宮であると話した。しかし戦争中は暗号名、キムス・村越を使った。彼はベンにこの事や他のいろいろな事情を喋らないように誓せた。

竹田恒徳(ツネヨシ)(これがフルネームだ)皇子は明治大帝の孫だ。(1852-1912)明治天皇は側室に四人の娘があり、それぞれが四人の皇子に嫁いだ。その四人の皇子は異色な性格で生涯の悪友だった。

北白河宮成久、弟の竹田宮恒久、そして朝香宮鳩彦、義弟の東久邇宮稔彦である。この血族の殿下達は少年期に同じ学校に集まり、同じ大学へ進学し軍隊も一緒、同じ芸者を共有し一緒に渡欧、そして同じようにプレイボーイだった。二人の皇子は若くして死んだ。竹田宮の唯一の皇子が十歳のとき死亡。そしてその弟の北白河宮成久は、一九二三年、手作りの高級車ブガッテイでパリからドウービルへ旅行中、道路わきのプラタナスの木に激突し、病院で死亡した。だからこそ、残った遊び人朝香と東久邇は大きくなった若い竹田に格別な関心をよせた。竹田は又九歳年下である皇太子裕仁のお気に入りの従兄弟だった。

皇族の男子はすべて軍事教育をうけていた。若い竹田宮は最初学習院へ通い、陸軍士官学校を一九三〇年に卒業し、騎兵隊の少尉に、そしてすぐ中尉になった。後に陸軍大学校で学び、一九三六年(昭・十一)八月には大尉となり一九四〇年(昭・十五)に少佐となった。一九四二年(昭・十七)には東南アジア方面軍司令官、寺内伯爵と裕仁との個人的な連絡役としてサイゴンへ送られた。(朝鮮総督として墓の略奪や市民の虐殺をした寺内大将の息子だ。)他の皇子と同じく竹田も軍部エリート(最高幹部)の一員であり、その戦場での存在は天皇の最高指揮権の堅固な広告塔だ。

天皇の特命を受けている彼の任務は、アジア中でゴールデン・リリィーの指揮をとる秩父宮の副司令官となっていた。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:13 p.m. No.132868   🗄️.is 🔗kun   >>2869

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>>132867

 

陸軍中尉に昇進した彼は作戦師団戦略部隊の将校、宮田中尉の偽名で登録された。公式にはまだサイゴンに在籍していたはずだが、マニラ以外の地域のゴールデンリリィー作戦を担当するためフィリピンへ派遣された。秩父殿下はマニラ全域の司令官であったが個人的にも財宝基地全体を監視していた。しかし彼は東京、シンガポール、ジャカルタへと出張で留守が多かった。ベンはすべての皇子達が戦略会議を支配していた一九四三年の間に二度秩父を目撃している。ベンが言うには、秩父は常に他の皇子からチャコを呼ばれ、竹田はキムスと呼ばれていたそうだ。竹田宮自身はサン・フェルナンドの高地を本拠にし、幾つかの大きな洞窟を建設していたが、最も重要なものはキャンプの隣に急いで作られた。彼は又、島全体の一七四箇所にあるそれぞれの皇族財宝の主任技師として指揮していた。つまり竹田はサンフェルナンドに常駐していたわけではないのだ。彼はフィリピン中を巡回し、シンガポール、バンコク、サイゴン、ジャカルタへ飛ぶ道中で略奪品を集め頻繁に東京へ引き返していた。我々は彼が最低でも年に一度は日本にいたことを知っている。何故なら、彼の妻は、一九四〇、四二、四三、四四、四五、と子供を生んでいるのだから・・。

 

キムスがサン・フェルナンドキャンプを歩き回る時は、いつも護衛が隣の護衛に皇子が来ることを大声で伝えた。誰もが広場にちらばり彼の目に入らないようにした。数世紀にわたって日本の庶民はいつもひれ伏し、頭を地面にこすりつけた。ベンはこれを目撃していたが、彼は日本人ではないのでこの掟を知らなかった。

何らかの理由から、キムスはベンガが彼の父エスティバンに接する態度と同じことを自分にすることを喜んだ。

ある夜、足立大佐は屋敷の隣にある防空壕へ塩を取りにいかせた。ベンは塩を見つけることができず誤ってトンネルの中へまぎれこんでしまった。

そこで彼は金の延べ棒でいっぱいになった木箱や壷をみつけた。塩ではないかと思い壷のひとつを開けてみると中には硬貨がつまっていた。――ソブリン金貨、ドル銀貨や東南アジアの中で流通している硬貨など、ベンが見たこともないようなものばかりだった。彼は塩がないものかと別の壷を開けた。そしてもっとたくさんの硬貨をみつけた。一箇所にこれほどたくさんの硬貨をみたことがなかったベンはびっくりして、壷に手をいれ硬貨をつかんだ。丁度そこへ日本兵がやって来て何をしているんだと問い詰めた。彼はベンをつまみだし、足立大佐はかれをキムスの前につれていった。皇子は彼に問いただした。ベンはただ塩を探しに行っただけだと説明した。

キムスは微笑んでベンに、行ってはならない所へは決して入らないよう、そして硬貨や財宝に触らないようやさしく注意した。

 

次の朝早くベンはベッドで一人寝ていて、たくさんの硬貨に埋もれながら目を覚ました。彼は動くのが恐ろしかった。彼は硬貨に触れると殺されるのだとおびえた。自分の名前が呼ばれると、ベンはベッドにへばりついたまま返事をした。キムスが笑いながらやってきて、ベンに硬貨を拾い集め袋に詰めるように言った。

そして牛や馬を乗せた荷車に水牛を結びつけ、硬貨と一緒に新しいミシンを積み込んだ。キムスは「君のお父さんに会いに行こう。」と言った。

彼はベンがトンネルの硬貨に夢中になったことを考えると少年の家族がとても貧乏であることを思い出した。デュラオ地域へ行く途中、河沿いで何人かが深い立抗を堀り、別の者が立抗じゅうに立ててある陶器の壷から大量の硬貨を取り出している日本の兵士の一群を通過した。

キムスは彼らと言葉を交わし、何かの書類を調べ満足そうに荷車にもどった。デュラオへ進み続け、ベンは捕虜が木を切っているのを見た。そして有刺鉄線で囲まれた収容所へ行き着いた。裸同然で痩せ衰えた囚人が、バエンバンでベンに読み書きを教えてくれた「ディズニーの父さん」と呼ばれていた牧師だとわかった。

もうすぐ死ぬことがわかっているベンは悲しく、そして申し訳なさでいっぱいだった。

ベンの家に着くとキムスは足立大佐を通じて、ベンが従者としてとても良くやってくれているのでこのまま使い続けたいという事と、その代わりに父親にミシンと牛、馬、水牛、荷車、硬貨の大きい袋を提供すると話した。最初ベンと両親は、奴隷として買われていくものだと思い、ベンは泣き出した。ベンを見ていた母親もあからさまに叫んだ。

足立は、本当にベンを雇いたいのだと説明した。キムスは日本の皇子であり、ベンがお気に入りだということ、彼を守るし、戦争が終われば皇子が両親のところへ連れて行くことを誓うということを彼らに説明した。両親はベンの考えを聞いた。ベンは皇子の従者は皆親切だと言った。そして母に、心配はない、キムスは自分を弟のように扱ってくれると説明した。高級将校である准将川畑、足立大佐、鏑木大佐、川渕大佐、ホンダ海軍大佐、高橋海軍大佐ら、すべてがベンに日本の言葉や表現を教えていた。(終戦までにはかなり流暢に話せるようになっていたし、簡単な文字ならば読めるようになっていた)話がまとまりベンとキムスは荷車に戻り、サン・フェルナンドキャンプへ戻った。

明治大帝の孫が水牛の荷車で乗り回す姿は随分目立った、というのもキムスはいつもピシッとした白い制服を着ており、従者である陸、海軍の将校と違いがありすぎたからだ。上着の左胸の赤い円形プレートの上に記章を並べ、肩にはベンにとっては何かわからない肩章をつけていた。しかし、赤い連帯記章は特別な意味があるもので、明るい赤の絹糸で刺繍がされていた。四角の回りをスカラップ模様で純金の縁取りがなされ、十四花弁の菊の形は皇族の血流の紋章である。

 

ある時ベンは刺繍に強くブラシをかけすぎ金糸を引っ掛け、将校にひどく殴られた。この時殴られたことと、防空壕で硬貨に触れた時の叱責が、ベンが乱暴に扱われたすべてである。(半世紀後、表紙に黄金の菊の印のついた「ヤマト王朝」の英語版を見た時、ベンは「これはキムスが上着に付けていたやつだ。」とつぶやいた。)

キムスの前輪のフェンダーと同じ紋章のついた三角旗が将校の車にもはためき、そのためどの日本軍検問所でも衛兵達は皇子が接近していることを知ることができた。

ベンはキムスが二四歳~二五歳ぐらいだと思っていた。(実際は一九四三年で三四歳だ、しかし若くみえた。)、彼はベンより背が高く、五フィート十インチ(一七五センチ)もあった。顔はとても平べったく、頭は剃っていた。彼には小さな癖があった。タバコを吸うとき、小指と薬指の間にタバコをはさみ、煙で輪を描くのだ。貴族としては彼のしぐさはものうげで、少しもあわてずゆっくりとしている。

いつも顔をぬぐうために白いハンカチを持ち歩いていた。彼のめがねはベンが今まで見たこともないようなもので、レンズが前へ飛び出るように蝶番がついていた。

たまに日本の歌「サクラ」を口ずさみ、「リリーマルレーン」を日本語でベンに教え、戦時中の世界の人気曲を歌って聞かせた。

キムスはとても優雅な英語を喋るのだが、それはベンしかそばにいない時だけだった。将校がまわりにいるときは日本語で話し、足立大佐がイロカノ語でベンに通訳した。

彼らのサン・フェルナンドの屋敷は厳重に警護されていた。高官が毎日、新聞をもってきた。財宝でいっぱいの船を回収しやすい所へ沈めたと話しているのをベンは耳にした。キムスは机と大きな黒板を備えたテント部屋を持っており、そこでフィリピン中の財宝基地から報告にくる主任技師に指示をだしていた。ついにベンは、裕仁と皇族達だけのための一七五箇所の特別な財宝基地が作られていることを知った。それらを隠匿することがキムスの任務だったのだ。どの隠匿施設にもそれぞれ主任技師、設計士、鉱山専門家、陶土の攪拌と塗りの専門家、罠の専門家、毒薬やシアン化合物を瓶に詰めて各設備にばらまく科学者などがいた。彼らがキムスに報告する。その進展をながめ整ったとみるや点検し、一覧表を作りに行き、そして封印するのだ。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:13 p.m. No.132869   🗄️.is 🔗kun   >>2870

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>>132868

 

ベンはキムスに付いてどこへでも行った。大きな南のミンダナオ島までも出かけた。キムスは個人の従者に加えて、部下の後ろから重装備のトラックを連ねた三小隊の兵士がいた。これら普通の兵士は皇子と話すこともなく、直接顔を見る事すらできなかった。

車の中のキムスは手元にカバンを置き、中には設計図、目録(財宝一覧表)、地図、設計道具やコンパス、望遠鏡などの道具類が詰め込まれていた。もう片側には軍刀があった。各施設に到着すると、キムスは綿密に調査された地図と主任技師によって書かれた図面の最終点検に出かけ、その地域を歩き回った。彼が十分に納得すると==連合国捕虜や奴隷労働者を中に残し

たまま貯蔵庫を密封した。キムスはベンに、各施設において全ての奴隷労働者と捕虜達を中においたまま封印するのも、又、後日、皇室のメンバーによって回収されるまでこの場所の秘密を守れるように保証することもすべて天皇裕仁の命令==なんだと語った。そして従うしかないとも言った。ベンは、人を残したままトンネルを塞ぐ時、キムスが頻繁に涙を流すのを見ていたのでその言葉を信じた。(ベンはこの件について我々に話したがらない。日本兵士がどうやって生き埋めにしたかを明らかにするのでさえ涙をいっぱいうかべていた。「彼らには財宝を守ることしかなかった。」、彼は生き埋めにされることを怖がっていた。半世紀過ぎた今でも日本人が戻ってきて彼を罰しにくることを恐れていたのだ。)

 

ベンに言わせると、キムスは職務に忠実で細心の注意を払っていたということだ。ある時、貯蔵庫を封印する直前に労働者の一団から一人の中国人奴隷が逃亡した。その後日本軍が彼を捕えることができないとわかると、貯蔵庫から中のものを運び出すように命じた。そして金の延べ棒がつまった二七〇の金属製の箱は持ち出され、何処かへ運び去られていった。また

別のケースでは、キムスが施設の点検をすませると、その設計図と地図が不正確で、主任技師が自分のための財宝の確保するため悪意を持って修正を加えたと結論づけた。キムスはその場で首を切るように命じ、即座に実行された。三年以上、ベンは彼に従ってルパング島のような島へ飛行機や船で付いてまわった。それらの島には今までとは異なる寸法の貯蔵庫があった。ミンダナオ沿岸、北の果ての小さな島でベンは船を見たが、その船の甲板に大きな植木を生やし、生きた木に偽装していた。ずっしりとした箱が甲板に積み重ねられ、ドイツ兵が警護していた。キムスの将校がドイツの船だと語った。ドイツ兵はすべての箱が降ろされ島の洞穴に運び込まれるのを監視していた。ベンには箱の中身が何であるか分からなかったが、とても重いものであることは確かだった。戦争期間中、日本の貨物潜水艦はナチの潜水艦基地であるフランスのロリエントへウランの購入代金として金の延べ棒を持ち込んでいた。これは日本が自前で原爆開発しようとした秘密計画の一部である。ドイツのユーボートと特殊地上工作員はインドネシアやフィリピンの中継地点にウランを運びそこで降ろした。そこからは日本の潜水艦が東京へ運んだ。鉛で保護された箱が降ろされ、待ち受けていた日本の潜水艦に搬入される取引をベンは目撃したはずだ。キムスは一七五箇所の皇室隠匿場所で最終的な検品をした唯一人の人間だが、初期段階では別の部隊も関わっていたとベンは言った。彼は裕仁の弟、三笠宮に率いられていたと言った。三笠宮が公式には南京の日本軍司令部に属していたと言われる同じ時期の三年間、ルソン島にいたとベンは主張した。そうなのだ、彼のルソンでの存在は確かに可能性があるのだ。(同じく竹田宮は公式にはハノイ配属となっていたが実際にはルソンにいたのだから)

 

彼が言うには、他のチームは一九三七年(昭・十二)南京虐殺を命じた朝香宮の息子若い朝香孚彦(タカヒコ)に率いられていたそうだ。我々はベンがこれらの皇子の正式な名前を知っていることに驚かされた。一九九〇年代に昔の三十年代に撮られた写真を使いブラインドテストを行った。彼は皇子達を特定した。あらかじめ混ぜてあった皇子でない人物の写真を特定できないだけだった。英国図書館の東洋コレクション管理者から提供してもらった貴重な写真を準備し、念のため身元が分かるものも取り外しておいた。ベンが日本の外部ではめったに見られない時期の写真から、国外では知られていない皇子を特定したことは、彼が電話の掛け方すら習ったことがないことを知ったならばとてもすごいことじゃないか。ベンは確信をもって言った。白い制服をきて赤い記章を付けた写真の男達がサン・フェルナンドにいたキムスに会いに来たと。

 

東久邇や朝香宮(年配のほう)のように随分年配者も含まれていた。彼らは視察旅行の途中、飛行機でルソンへやってきたのだった。兵士や将校は、そんな高位の皇子が訪ねてくると極度に緊張したという。二つの目撃証言がある。ベンはキムスとマニラの会合に行った時、秩父宮をずい分近い所で見かけた。すると秩父はハンカチに血を吐いた。それはベンにとってとても印象深いものだった。そしてもう一度、戦争が終わる月(八月)にバエンバンで再び秩父宮を見たのだ。ベンが直接目撃したとしても、秩父が結核だったということを彼が知るすべはなかった。何ヶ月もインタビューしているうちに、ベンは秩父の病気がだんだんひどくなり治療のため日本へ戻ったのだと言った。

そしてその間に三笠宮がサン・フェルナンドのキムスの所へ何回もやってきたのだそうだ。ゴールデンリリィに関わった日本人のまったく別の目撃者によると、皇子達の一団が巨大な施設を点検していた時にベンが三笠宮一行の中にいたという。ある日本人の情報ではベンは三笠宮の付き人であると推測されていた。彼らが深い立抗や洞窟、地下道にいたとしてもベンがその中へ入る事など普通はなかった。入口では数十メートル離れた場所にいたし、もちろん入ることを禁じられていたので地面の下で何が行われているかを知る由もなかった。

ベンはタバコ、水、食料をすぐに取ってこれるように待機していたのだから、見ることができたのは、坑道や洞窟の地面に掘った穴の開閉装置が開いている時か、箱が坑道へ降ろされたりトンネルに運ばれるところぐらいだった。中で起きている事はずいぶん後までベンには知らされなかった。ゴルデン・リリィの地下道の多くは丘や山へ真っ直ぐに突き進み、トンネルの床

下を二〇メートルぐらいの深さで立抗を掘っていたのだが、これはとても重要なことだった。立抗はコンクリートの壁が作られ財宝でいっぱいになった。おそらく金の仏像を埋めたのだろう。(ベンは日本の神様だと思っていた。)コンクリートの壁は一~二メートルの厚さで注入され、トンネルの床にみえるように偽装してあった。

 

宝探しの連中は足元にたまたま地下貯蔵庫があった時か、片側から隠れた坑道を完璧に取り去る以外に実を結ぶことはなかった。

そのひとつにバンタイ・ラケイと呼ばれるフィリピンの山があった。別のものはカパヤにあり、トンネル入口すぐ内側の立抗にとても大きな金の仏像が置いてあった。ベンは日本兵が大きな岩をトンネルの入口にころがし、残った開口部に小さな三つの岩を詰め込み、回りの石と同じ様に見える硬い陶器を混ぜたセメントですべてを塗りこむところを目撃した。

マニラの東、モンタルバンには日本軍の施設がたくさんあったが、その緩やかにうねった地域にたくさんのトンネルが掘られていた。このトンネルを密封する前にベンは二週間にわたって、一日中財宝を積んだトラックが到着するのを見た。太平洋戦争の間、そこには発掘を妨害するための葉が茂った背の高い木が植えられていた。今日のモンタルバンは森林が伐採さ

れて、そのほとんどが水田になっている。財宝回収の最近の取り組みでは、千ポンド爆弾ばかりでなく日本軍が仕掛けたあっという間にトンネルを水没させてしまう巧妙な罠によって妨害されていた。いつもではないけれど、キムスはバエンバンの南、アリタオにあるメニィ・モンキーなどのトンネルや洞窟の中へベンを連れていく機会があった。

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メニィー・モンキーは奇妙な所で、丘の中腹が一個十~二十トンにもなるたくさんの巨石で覆われていた。これら直径数メートルにもなる巨石は特に毎年十一月にやってくる台風や洪水で丘の中腹で洗い流されてきた。アリタオでは巨石群がぶどうの木や森林の傘におおわれ。赤毛ザルの群れが占領している岩場の間に天然の貯蔵庫をつくっていた。キムスの技師達は猿を追っ払い、葉を燃やし、丘の横にある深さ四六メートルの大きな二つの空間を選んだ。そしてそれらをコンクリートで補強した。それぞれ約二〇フィートの巾と三〇フィートの長さがあり、空間にプラチナと金の延べ棒を綺麗に並べ、アクセサリーから取り外した原石で満たされた大きな五つの壷も追加された。

ベンは宝石が金の金具で留めてあるために没収された数千個の時計でいっぱいになった壷をみて吃驚してしまった。その壷を兵士達が空洞へ降ろした。二五〇キロの小さな金の仏像は注意深くコンクリート製の箱に入れられ、朝鮮の奴隷労働者達が帆布の帯を使って引きずりながら空洞へと引っ張っていった。その施設での積み込みと在庫調べは全体で一週間かかった。次にベンは百台以上のトラックが財宝を積んでやって来たのを見た。それはキムスに最終的な検品をしてもらうためであった。ベンは皇子が色とりどりの宝石が詰まった最後の壷に手をつっこみ、指の間から滝のようにこぼれていくのをうっとりとみている姿に釘付けになってしまった。彼は兵士にそれを迷路の中へ運ぶように命じ、二人は道に迷わないようにおいてある丈夫な赤い紐に従って歩いていった。その壷が他の壷の横に置かれると、空洞に繋がる通路はその地方の石とそっくりに見せるように彩色師によって混ぜ合わされた厚いコンクリートの壁でふさがれた。キムスとベンは兵士と技師の後ろについて巨石群の渓谷を抜け帰り道を行き丘の横の急流にでた。(我々はベンと一緒にメニィー・モンキーを訪れたがコブラの大群に囲まれて入ることができなかった。CDにはその写真がある。)

 

フィリピン最大の財宝貯蔵金庫施設のひとつは、キムスが拠点としたサン・フェルナンドキャンプのすぐそばにあった。そこは男達を三年間ずっと地下で働かせ、三つの天然の洞窟を拡張し、鉄筋コンクリートで壁を作り地下道でそれらを連結させようとしていた。サン・フェルナンドの地下施設は八番坑道と呼ばれ、規模はサッカー場に匹敵するといわれた。

九番坑道は別の日本軍キャンプの真下にあった。三番目は共同墓地施設とよばれ、バエンバン共同墓地のほとんど真下にあった。八番と九番は約一キロ離れていたが共同墓地とは一キロ半の距離があった。この複合設備は終戦前の最後に在庫を調べ密閉されたひとつだ。サン・フェルナンドの竹田宮が住んでいた屋敷のバルコニーから真東を見るとずんぐりとした一九四〇年代のブラジャーの様にも見える二つの円錐形の山が聳え立っているのが望める。右側が四七七四フィートのセハール山、近くのもうひとつが五五九四フィートのパラウ山だ。イロカノ人はセハール山をナクンビンチャンと名付けたが日本軍はキサドと呼んだ。毎朝、日が昇るとキムスは外へ出かけ、山に向かってお辞儀をしていた。サン・フェルナンドから東に向けて二つの巨大なおっぱい山の裂け目に舗装していない道路がのびていた。この道路の左側にパラウ山の山脚(突き出し)があり、その下が八番坑道だ。(もともとの赤シリーズの地図が我々のCDに再現してある。)この突き出し部の北わき腹から一キロ離れた所に他の陸軍キャンプがあり九番坑道のもうひとつの入口がある。

戦争の後半、一九四五年(昭・二〇)の冬から初春の頃、ここは山下将軍の司令部となり、その後で最終防衛戦を戦うためキアンガン地帯へ転戦していった。

ベンは山下の貯蔵庫の離れていた入口に関しては耳にしたことはなかった。サン・フェルナンドのキムス司令部では八番坑道の痕跡は地面に穴があるだけで、そこから炭鉱夫を立抗へ降ろすための粗雑な骨組みのエレベーターがあっただけだ。このエレベーターがベンやキムスを二二〇フォート下にある地下道の入口へ運んでくれる。ある時地下に下りたベンはどっちの方向へ歩いていくのか聞くことができた。最初に袋でいっぱいの応接間と呼ばれる円形の空洞にやってきた。ベンは袋の中身が何であるかを知らなかったし、聞くこともしなかった。その円形の部屋を囲んですべての方向へ放射状にタイヤホイルのように六本のトンネルがのびていた。彼らがそのトンネルのひとつに入ると、箱が内張りになるよう頭より高いところまで積み重なっているのがみえた。

 

次に三〇フィート下りるともっと大きな空間に到達した。床も天井もコンクリートが貼ってあり、ベンはまるで野球場のように大きいと思った。そこが八番坑道の主要部分で「貴重な部屋」と名付けられ、すでに金の延べ棒でいっぱいだった。元々は天然の空洞だった所を日本軍のために二年を費やして拡張し強化したもので、今まで訪ねた施設のどこよりも多くの人とトラックを必要としたとベンは語った。そこでは延べ棒は積むというより、島のようになっており、それらの間に通路があった。次の三番目の空洞に着くと、そこは鉄の扉で密閉されていた。そこにはベンは入ることが許されなかった。これが九番坑道か中央司令室だった。ベンとキムスは別の長いトンネルを通り、最後に体育館並みの大きさの地下金庫に着いた。そこでは壁という壁に金の延べ棒が積み重ねてあった。ベンは我々に言った。「私が見たのはとてもたくさんの金塊だった。ブッダそっくりの少年像もあったよ。他にも二つの仏像と、たぶん二十五個ぐらいの小さい物もね。」、すべてが純金で、前からそこにあったものとは思えないとも言った。

 

一九四四年(昭・十九)の夏になると。連合軍によるフィリピン、或いはフォルモサへの侵攻がせまっていることが明らかになってきた。巨大なアメリカ艦隊がニューギニアのホランディアに集結していた。日本はルソン島ですら守ることが困難になってきた。黒田繁之大将はフィリピンで自らの指揮権を剥奪され、日本最高の戦闘将軍、山下奉文(ともゆき)と交代した。山下は全精力をかけて、失ってしまうと本土が脅かされることになるグアムと沖縄への攻撃を妨害する作戦の一環としてフィリピン北方の防衛に当たることになった。山下は奥が深く興味深い人間だ。表面的にはプロシア軍にあこがれ、日本軍をその様に作ってきたようにみせていた。

彼は大柄で頑丈な首、太い胴体、そして頭は剃っていた。その表情は乏しく残酷で鈍感にみせていた。現実は、日本の狂信的な軍国主義の危険な高まりに反対してきた穏健派だった。一九三五年(昭・十)、最も危険な狂信者、永田鉄山が東京司令本部で相沢三郎陸軍中佐に刺殺された時、山下は玄関で刺客を止め、彼の手を取りその勇気ある行動に感謝したほどだ。戦争の初期に山下はシンガポールにおいてあまりにも素晴らしい勝利を得たため、東条首相から恐れられ妬まれるほど大衆の英雄になったので、東条は彼を呼び戻し、戦争中のほとんどを満州に追い払っていた。しかしながら一九四四年の半ば、東条は失脚し山下を満州からルソンへ送る直接指令が下った。

軍事の天才が奇跡を起すように命じられたわけだ。彼がマニラに着いたのは一九四四年十月六日、もう形勢を変えるには遅すぎたであろう。こうして山下は、最後の十ヶ月間だけゴールデン・リリィーに関わることになるのだ。

 

その頃皇子達やその側近は、マニラ北部の山へ金の延べ棒や他の財宝を大慌てで移送していた。山下は出来る限り長くそこを持ちこたえるように計画をたてた。一九三〇年代早春の出来事(二・二六事件)が起きたとき、秩父は東京で山下の連隊に所属していたので、個人的に二人はとても親しかった。だからマニラのこの状況下で再会した時、二人の間には格別な連帯感が芽生えたのだ。ベンは彼らが挨拶するのを見たことがあるが、山下は秩父にお辞儀をしなかった唯一の日本人だったと言った。そのかわり山下は秩父を久しぶりにあう弟のように出迎えたという。その年の十月、ベンはキムスとバエンバン北方のバガバグへ行った。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:14 p.m. No.132871   🗄️.is 🔗kun   >>2872

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そこには日本軍の飛行場があり、彼らは十二人の乗客とともに双発の空軍機でマニラへ飛んだ。最初に行ったのはサンティアゴ要塞で、連合軍捕虜達がお化け金庫を古いスペイン時代の空気抗へ一生懸命降ろしていた。次の朝は、サン・アウグスティン教会の六本指施設とマニラ大聖堂を訪れた。そしてそこで、金がつまった金属の箱を財宝貯蔵庫へひとつづつ降ろし、次に金むくの仏像を収納するところをながめていた。金むくの仏像はロープで巻かれ、片一方を馬で引っ張りながら降ろした。記録係が助けながら馬はゆっくりと像が立抗に下りていくよう、後ろ向きに動いた。その時山下将軍がやってきた。秩父に親しげに挨拶した時とは違い、キムスと山下はよそよそしく見えた。その最後の十ヶ月、山下は小島カシイの運転で、西はバグイオと中央のバエンバン、そしてルソン北端アパリの間で十二箇所以上のゴールデン・リリィー施設の進展状況を見て回った。とにかく時間がなかった。一九四四年(昭・十九)十月、歴史上最大の海戦であったレイテ湾の戦闘で、日本は破滅的な損失を被った。

 

マッカーサーは一九四一年(昭・十六)十二月の急襲で恥をかかされたあげく、次の数ヶ月でバターン部隊を置き去りにし、コレヒドールから不名誉な撤退をした経験から立ち直れないままであった。いまや彼は危険を冒すことはできなかった。レイテにおける彼の軍事力は日本のほぼ十倍だった。そこで勝利したマッカーサーは、ルソン侵攻の計画をたてた。山下はひとつの装甲師団と六つの歩兵部隊で二十七万五千人以上の兵士を確保していた。もっとも負傷兵や生存者、用役部隊も混じっていたが。彼は山中において出来るだけ戦闘を引き伸ばすように耐えることしかできなかった。マニラを守ることは難しかった。彼は町から引き上げ、マニラを開放を宣言することを決めた。そうすれば無意味に破壊されることはないだろう。不幸なことに、実際にはマニラは日本海軍の支配下にあったのだ。だから山下は一万六千名の海兵とそこにいる海軍部隊に対しての影響力を持ってはいなかった。山下大将が全日本軍に郊外へ引き上げる命令をだしても、岩淵三次司令官は命令を無視した。岩淵はすべての港湾設備と海軍の倉庫の破壊を指示した。彼には彼の計画があった。コレキドール島に自分と海軍の大量略奪品を隠していたし、秩父宮が大量の財宝を隠したこともすべて知っていた。米軍が制空権を握ったため海への逃げ道はない。

 

岩淵は山中へ撤退できたのだが、逃げ惑うねずみになる代わりに、海兵にマニラ住民に対して乱暴するように仕向けた。マニラを無法地帯とみたマッカーサーは自分の誕生日である一九四五年(昭・二〇)一月二六日までに首都を落としたかったため、リンガエン湾の浜辺から南方へ向かって大急ぎで軍を進めた。岩淵は一万六千名の兵士に玉砕を命じた。彼らは狼狽しながらマニラを墓場に変えるべく家から家へと銃撃を続け、通りにいた非戦闘員を剣で刺し南京以来の虐殺を女、子供に対して働いた。十万人のフィリピン人と千人のアメリカ人が殺され、都市の八〇パーセントの家が潰された。混乱の中、岩淵自身は城壁の坑道を通って抜け出し姿を消した。公式には死亡と伝えられているが確認はされていない。彼が潜水艦でルソンから抜け出し偽名を使って日本で天寿を全うしたという指摘もある。何故なら彼は死後裕仁によって中将に昇進しているからだ。北方に向かって、山下の防衛ラインがバグイオ、バエンバン、ボントックの三角地帯に作られた。これらの地点に到達しようとすると山峡や谷間の狭い道を通過せざるを得ない、そこには兵士が塹壕を掘って待っている。ベンには何が起きているのかわからなかった。ある日、キムスと部下は多くの飛行機が飛び回る中、ベンと共に小屋の中で待機していた。ベンはそれが日本機だと思ったが、足立大佐は米軍機だと言った。ベンは言った。「もう日本はダメなのですか?」足立や他の人は笑いながら、「米兵がやってくるんだよ、ベン。」数日後、戦闘機が爆撃し機銃掃射していった。ベンはキムスらが祈りの儀式をしているのを見た。彼と竹田宮の結びつきが小さな出来事から汲み取れる。キムスはベンに血の誓約をするようせまった。彼らは右手の小指の先を切り、滴り落ちる血で軍旗に血判をしあった。(実際我々はベンの小指の先が欠落しているのを見ている)

 

まず、ベンは秩父宮のことを喋ることを禁じられた。第二には竹田宮の暗号名を漏らさないこと。「アメリカ兵にも中国人にもフィリピン人でも、日本人ですら言うな。」、キムスはこれらの施設は皇族達だけのために保持されると語った。ベンの将来のために金がいっぱい詰まった二つの鉄製の箱を隠しておくとも言った。そのためベンが忘れないよう、ベンの手に二つの刺青をいれ、その二つの箱にも同じ印をつけた。次の日彼らはアリタオからバグイオへ向かう途中にピンカン橋へ行った。川から数メートルの高い土手の上に立派なマンゴーの木がそびえ立っていた。水牛が引っ張ってきた二つの金属製の大きな箱が立抗の中へ埋められた。日本兵はその箱をころがすために鉄製パイプを並べていたが、ひっぱるには五頭の水牛を必要とした。箱を立抗に入れた時、蓋が開けられ、キムスはベンを呼び寄せ、中に入っているものを見せた。そこには七五キロの金の延べ棒がびっしりと詰まっていた。キムスはベンに日本語で語りかけた。「これね、サービスだよ。たくさんたくさんのゴールドさ、ね?」大まかに言うならば、「これは貴方にサービスとしてあげるよ。とてもたくさんの金だよ。OKか?」(ゴールドを日本語にすると金だ。しかし英語でゴールドを使う時に日本人の発音はゴールダーだ。現地の人にはそのように聞こえるようだ。半世紀たってキムスが言ったことをベンに書かせたが、彼の日本語の知識は限られていたので、「くれねーサービス。さよくれ、くれ、たくさんゴールドね」であった。)

彼はキムスに箱には毒を振りまくだろうと言った。そして箱を閉じてしまった。戦争が終わって、ベンは自分でそこへきて掘り出した。穴を開けるときベンは灯油を箱にまいてほこりを焼き尽くさねばならなかった。そして蓋を開けるときも箱の中のほこりを焼くためにもっと灯油をかける必要があった。そうして彼は無事にゴールドを掘りだした。彼は全部の金塊の代わりに小さな塊をもらった。というのは、あまりにも注目されすぎると売ることができないからだ。キムスはベンにその金で大きな牧場を買い、村で見かけるような可愛い娘と結婚し、たくさん子供を作り助け合って暮らすといいと話していた。ベンは言葉がでなかった。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:14 p.m. No.132872   🗄️.is 🔗kun   >>2873

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>>132871

 

彼らが穴をいっぱいにするころ、ピンキアン橋のもう片方から別のゴールデン・リリィ部隊がやってきたのにはびっくりした。そのリーダーはキムスと同じ赤いバッジをつけ、白い上着を着た秩父、そのひとだった。キムスと秩父は互いに挨拶もしないし表情ひとつ変えなかった。秩父はとてもほっそりとし、咳き込んでいた。ベンは彼のハンカチはまるで軍隊旗のように真っ赤だったと言った。そして数日から数週間、彼らは残った財宝を必死になって埋めた。山下は米軍が進軍してきたため、バグイオを放棄し、バエンバンの勝負をかけた司令本部へ移動した。しかし、山下はキムスのキャンプがあるサン・フェルナンドにくることはなかった。山下は九番抗の地下司令室に行くため、離れた所に専用入口をもっていた。彼と将校達はキアンガン地帯を放棄する前の数週間、多くの時間をこの地面の下で過ごした。ギアンガンではその合間に山下将軍と将校達が間近にせまる玉砕の戦いに使用するため、頑丈な基地として別の大きな洞窟が用意されていた。キアンガン渓谷は、丁度ケニアのソフトバレーと同じで自然に地面が隆起してできた地域で水も豊富で洞窟だらけだった。山下が防御用に選んだ目的に完璧に適した天然の要塞だった。ベンはこれらの作業は戦闘不能な兵士や、非戦闘員の官僚に指揮された奴隷労働者によって成し遂げられたのだと言った。一九四五年(昭・二〇)五月五日、アメリカ軍の山中への進軍が素早かったため山下は防衛の三つの地点の内二つをあきらめ、ボントックを棄てた。彼は部隊をバエンバンとベガバグの間に引き上げ、キアンガン渓谷に注ぐアシン川に沿って展開した。この地帯は格別に険しいところなのだが、ベガバグは実際バエンバンの北へたった二五マイルしかなく、ギアンガン渓谷の端はバエンバンの西にわずか五マイルなのだ。食料の供給は水牛の群れがあるので十分だ。

 

又、山下の軍団はキアンガン渓谷中の早場米の収穫をすませていた。新たな収穫は九月にも準備ができるけれど、その頃には戦闘は終わっているだろう。その間に雨季が来る。アメリカ兵には耐えられない台風や洪水もやってくるだろう。山下は空からの攻撃を妨げるために雨や台風を計算していた。一九四五年(昭・二〇)五月末、キムスとベンは秘密に北方へ行った。まず最初、バガバグへ行くとそこには三笠宮が待っていた。二人の皇子とベンはカガヤン渓谷を通りアパリに向かって運転し、沿岸に沿って右へ回り小さな湾に入った。そこで高速警備船に乗るとカミグイン島の北側を横切り、そこに日本潜水艦が待機していた。キムスは艦に乗り、次の週の同じ時間に関しての打ち合わせを船長と行った。その間、三笠宮とベンは警備船に残っていた。三笠宮と二人だったのはその時だけだったとベンは言った。ベンは、キムスは自分がいなくてもベンに悪いことは起こらないとわかっていたと思った。六月に入り最初の四日間に山下の対戦車部隊はアリタオ南部で米軍七七五戦車部隊と戦闘をおこない、その時から渓谷へ逃げ込む速度を上げる必要性が高まってきた。六月一日の夜、一七五箇所のゴールデン・リリィーの主任技師は八番抗の地下会議室でお別れ会に呼ばれた。残っていた財宝はすべて隠匿された。八番、九番坑道も、地下共同墓地も金の延べ棒でいっぱいだった。ベンによると、その夜彼はキムスと一緒にいて、技師達はたくさんの酒を飲み乾杯と万歳を繰り返していた。

 

その時、地下共同墓地では二百名の奴隷労働者が集められ、日本兵が銃座の上で構えるマシンガンの監視下にあったという。この施設を作ったキムスは主任技師達と一時間ほどつきあったがベンを連れて設備全体の最後の巡回へ出かけた。彼らは連なる坑道を一時間以上歩き、積み重ねられた延べ棒や財宝をながめていた。キムスは繰返しベンに言った。「注意しろよ電線をひっかけるとぶっ飛ぶぞ!。」電線は坑道全体のそこらじゅうでダイナマイトの束につながっていた。お別れ会にもどり、キムスは技師達に熱烈な演説を行い、天皇の名前で彼らの達成した偉業を称えた。真っ赤になった男達は「万歳」を叫び続けた。演説が終わったときはすでに深夜だった。山下大将がやってきた。

彼はキムスに坑道から出る時間だと言った。ベンには中に残れと言った。「いや。」、キムスは言った、「私はベンを家に帰すことを約束しているんだ。」、彼はベンを振り向き、「早く行くんだ。」と、工事用エレベーターの坑道出口を指差した。山下はあきれた顔をしたが、明治大帝の孫に文句を言う勇気はなかった。我々はなぜ山下はベンが中に残るのを望んだのかを聞いた。「それについてはおそらく誰も知らないだろう。」と答えた。山下に従って彼らはエレベーターへ歩き、地上へ上がった。言葉もかけずに山下は闇の中へ歩き去った。キムスとベンが入口から離れた時、飛行機からの爆撃を思われる音が聞こえ地面に伏せた。巨大な爆発が地面をゆすった。(次の日、日が昇ると道路の西側に十五フィートのため池ができていた。連結した坑道が崩落したのだろう)

我々はベンにその時、技術者や奴隷全員が地下に捕われていたことを知っていたかどうか聞いた。ベンは地面を見て、「僕は、キムスが山下の言う事を聞かなかったことを幸いだと思ったよ。・・・・おかげでここに残れた。」すこしたってから付け加えて、「私は山下が恐かった。」と言った。

 

地面のゆれが止まった時、キムスが泣いているのをベンは見た。ベンは「天皇の直接命令で彼はそうしたんだ。」と言った。海軍大佐本田を含む多くの将校も技術者と一緒に生き埋めにされた。ベンの家に彼らが着いた時、初めてキムスと足立大佐がベンと離れるときがきたことを告げた。彼らはその夜にカミグイン島へ行き日本へ戻るために待機していた潜水艦に乗ったのだろう。

暗かったが、ベンはキムスが涙ぐんでいるのをみた。ベンも又ベソをかいた。「お前は父のベンハミーンの所へ行け。彼は片目しかないから農園ではお前の力がいる。ゲリラや米兵と一緒になるなよ。父さんの所にいて水田を手伝うんだぞ。」キムスは革カバンと刀をそこに置き、白い上着も脱いだ。ベンに上着と同様に軍刀を手渡した。そして歩きかけてから思い直し、地図がいっぱい詰まったカバンを渡しにもどってきた。おそらく潜水艦で日本にもどり、再びもどってくる可能性を考えたのだろう。「私のためにとっておいてくれ。木の箱に入れ家の裏に埋めておくのだ。」そして呪文をとなえて、「私との約束を忘れるなよ。この地図は誰にも、アメリカ人、中国人、日本人、フィリピン人、ゲリラの誰にも渡してはならない。私だけを待っているんだ。え~~いいか、いいか。」(これを繰り返した。ベンはこのいいかを数えたら十回だった。)「私が帰ってきたら君にやるから待っていろよ。三〇年待ってくれ。もしも私がもどらなかったら、地図を日本にもってこい。私が死んだら私の家族に渡すのだ。」、キムスは百ヤードほど行き、又もどってきた。そして再び誓いを繰り返した。「ベンハミーン、ゲリラや米兵と組むなよ。そうすると日本人はおまえを殺す。覚えていろよ。ゲリラはダメ。アメリカも中国もダメだ。私を待つのだ。」

今度こそ歩き去りもどらなかった。ベンは長い間彼を見送り、軍刀とカバン、上着を家の中へ持ち込んだ。夕暮れになって山下はアシン河を棄てキアンガン渓谷へ入った。戦争終了まであと三ヶ月だった。竹田宮がベンに与えた軍刀は、鋳造した鋼の刃を持ち、隕石から得られた鉄から鍛えたもので、木と革の鞘がついていた。日本の生きた宝(人間国宝)の一人が作り、それを収集していたキムスの祖父、明治大帝から送られたものだった。そんな大変な価値も知らないでベンはその年の十一月の収穫や、その後長年にわたり米の刈り取りに使っていた。彼は次の年の春、田んぼを耕しているときには、赤や金の菊の紋章が左胸に付いている白い上着を着ていた。父は皆の前で二度とそれを着てはいけないと警告した。そうでないと共謀者として殺されると。

上着と軍刀は長い間残してあった。何年たってもベンは誓いを守ったのだ。訳者注 岩淵少将が山下将軍の命令に従いマニラを開放したとしたら、フィリピン市民十万人、日本兵千数百人が死ぬ事はなかった

先日、NHKのハイビジョンでマニラ市街戦の一ヶ月を特集していた。サンチエゴ要塞が陥落したとき巻き添えにフィリピン市民一万人が死んだ。悪いのは海軍だが、マッカーサの誕生日にこだわったため、あせって攻撃をしたアメリカ軍のやり方も決してフィリピン人は許さないだろう。NHKの番組の中では悲惨な砲撃を受けたサンチアゴの要塞の地下にたくさんの戦時略奪財宝が隠されている事は語られなかった。そして、岩淵少尉がトンネルを通って何処かへ消えてしまった事も、そして彼が中将に昇進した事も語られなかった。マッカーサーがその略奪財宝にどのように関わっていくかは次の章で説明されるであろう。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:15 p.m. No.132873   🗄️.is 🔗kun   >>2874 >>9183

Originally posted at >>>/qresearch/20473957 (251131ZFEB24) Notable: GOLD WARRIORS "金の戦士" 【7】

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黄金の兵士 第七章 ウサギの穴におちて

DOWN THE RABBIT HOLE

 

日本から正式に降伏の通知を受けた後の九月二日、背が高く牛の様に太い首の山下大将は山道にそって出頭してきた。左に軍刀を持ち、彼と部下は降伏するためアメリカの戦列へ近づいた。最後の一ヶ月、アメリカ軍は三マイル前進しただけであった。ギアンガン渓谷包囲作戦の中、山下はすっかり痩せていた。彼は部下に切腹行為を許さなかった。「自分が死ねば他の誰かが又責任をとることになる。」と言っていたからだ。将校達の後から運転手などもやってきた。山下達は軍事警察(MP)のA.S.ジャック、ケン・ウヲーシーら収容委員と面会した。彼らがマニラ郊外にあるニュー・ピリバド刑務所へ検挙し護送するのだろう。

山下は立ち止まり部下の将校が彼の後ろに並ぶまで待つことにした。レスリー・Mフライ少佐によると、後ろにいた若い兵士が前に進み出て、運んできた金の延べ棒を贈呈した。それは片側にきちんと積み重ねてあったという。すべてあわせると一トン近くにもなる。山下は軍刀を抜き取り、深くお辞儀をしてケン・ウォーシー大佐にそれを渡した。五ヶ月先の一九四六年二月、ばかげた不当裁判として後に多くの議論をよぶことになるが、山下は絞首刑にされる。山下の罪状にも彼の裁判にも略奪した財宝や戦時中の略奪に係わることは、まったく言及されていなかった。彼はマニラで明らかに命令に反した岩淵の海軍兵と水兵部隊による残酷な犯罪を理由に戦犯にされた。それはアメリカの歴史上で敗戦国の将軍を戦犯として断罪し裁いた初めての事であった。その裁判は正規の資格を持った人々で構成されたものではなく、もっぱら山下を戦犯に仕立て上げるための風評を証拠として集めただけであった。簡略な手続きで、いい加減な証拠しか集まっていない。にもかかわらずマッカーサー司令部からは早く起訴するように催促された。山下将軍の弁護チームは合衆国最高裁に訴え、二つの最高裁判決が公判の実行を非難した。裁判官のマーフィーはこう言った。「被告には弁護のための十分な時間も与えられないまま、そして、そこに彼が戦争法の違反を認識した上で犯したのかを立証する努力もなされてないのに不法な容疑で公判をせまられている。又、それらの犯罪を知らなかったならば尚更彼に責任を負わせるべきじゃないのだ。」別の反対者、裁判官レトレッジは、「その公判過程は、米国、英国の伝統的な慣習法や憲法全体からかけ離れている。」と断言した。そしてトーマス・パインズの警告を引用して結論づけた。「自分達の自由を確保しようとするなら、敵対する相手に対してもその圧力から守ってやるべきです。もしその義務を放棄するならば、その人にも降りかかるような判例を作る事になる。」山下の有罪は覆らなかった。トルーマンへの訴えが退けられた後(彼はまったく対応しなかった)山下は絞首刑にされた。ほとんどの人は、マッカーサーは自分を無能者にした奴に復讐を望む程度のうぬぼれ屋だったことが、山下を絞首刑に送り込む理由だと考えた。

 

しかし、我々は秘密の約束があったことを知っている。山下将軍に肉体的な拷問を加えれば弁護士に知られてしまう。その代わりに部下達を拷問することにした。山下の運転手、小島カシイ大佐は特にひどい目にあった。

彼は山下将軍がフィリピン防衛を黒田シゲノリ(繁之?)から引継ぎ、一九四四年(昭・十九)十月に満州からやってきて、以来どこへ行くにも一緒であった。小島大佐の拷問を担当したのはフィリピン系アメリカ人、情報将校のセベリーノ・ガルシア・ディアズ・サンタ・ロマーナ、通常はサンティと呼ばれていた。彼はがっしりとして背が高く、広い額をもち、まるで柔道の黒帯のようか、又は古い緑のビンからとびだしてきたジェニー(イスラムの魔神)のようだった。先ごろまでの日本軍が残虐だっただけにサンティはその仕事が楽しかった。多くのフィリピン人が残酷に拷問され殺された。町では婦女子がレイプされ、その多くははらわたを抜き出されバラバラにされた。(一応、原文どおりに訳しておきます。)ただ、サンティと助手達は注意深かった。小島を殺したり記憶をなくしたりするような事はしなかった。サンティが知りたかったのは金をどこに隠したかである。

彼が大佐に望んだのは、ここ数年間の間に山下をどこへ連れていったかを白状してもらうことで、そこが即ち後日発掘される金の延べ棒や略奪品のありかなのだ。サンティは大佐が各地点へ連れて行き入口を示し、罠の詳しい説明をすることを望んでいた。小島大佐への残酷な取調べは、マッカーサーからホワイトハウスまで飛び上がる程ビックリさせるような結果を生み、二〇世紀最大の国家機密となっていった。それはすべての公式文書を「国家機密」の項目に指定したことで今でも不明瞭なままである。サンティのもたらした結果が冷戦中の世界でアメリカの影響力を劇的に変化させたといっても過言ではない。それほどまでに驚くべき結果なのだから、今その経過をさかのぼって見なければならないし、詳しく細部を注意してみよう。例えば、サンティとは誰なのか、本当は誰のために働いたのか?小島大佐を問い詰めるように誰が指示したのか?

サンタ・ロマーナはCIAでもマニラでも伝説に残るほどだが、不可解なままである。彼についてCIA上級将校は、戦時中にウイリアム・ドノバン「野蛮なビル」将軍が率いていた戦略情報部の諜報員として働いていた、と暗示しながら、サンティはOSSの職員でもあったと言う。しかし、そんな事は意味のない一般論だった。彼は決してOSSの職員でないからこそ、OSSが表向き財宝の存在をあきらめていたのに彼は小島を拷問したのだ。我々は又、サンティがゴールデン・リリィーの隠匿物資を知っていたのか聞かねばならないだろう。それはとても簡単なことだった。アメリカ軍はある時から日本軍がフィリピンに略奪した財宝を隠していることを認識していた。もっとも英国や他の連合国には知らせていないが・・・

 

例えば、終戦の前の年にマニラ近くのスービック湾で、米軍と一緒に戦っていたフィリピン人が荷物満載の日本病院船から金属製の箱を降ろしているのを目撃している。漁師に変装した米海軍の准尉ジョン・C・バリンジャーは、フィリピン人の派手に塗装された丸木舟からその船の写真を撮っていた。その船は、本当の病院船ではなかった。船の姿を十分調べた上で海軍の情報記録と比べてみた。そして一九三七年(昭・十二)に建造された高速船富士丸と特定したが、偽の装飾が施され、横側には大きな十字が塗られていた。偽の病院船となった富士丸は秩父宮とゴールデン・リリィーのためにシンガポールからマニラまで戦時略奪品を運んでいた。バリン

ジャーの部隊はゲリラの英雄メディナ船長に率いられ、軍用トラック群がとんでもない荷物を運んでいるあとをつけた。洞穴の中へとても重い箱を引きずっているのを見てしまった。バリンジャーはその中に何があるか考えもつかなかったが、とても貴重な何かであることは明らかだった。それぞれの箱をベルトを使って四人がかりで引っ張った。日本軍は洞穴の入口を封印し、偽装したあと去っていった。ゲリラ達は数日後、洞穴を開き、七五キログラム金の延べ棒が入った箱をみつけた。それは、それこそずらっと並んでいた。船の写真、金でいっぱいになった洞穴付近の写真は多くの同様の報告書と一緒にマッカーサー司令部のあるオーストラリアへ潜水艦で送られた。バリンジャーの息子ジェンによると、彼の父はOSSへ報告したつもりだったのだが、現実はそんな単純なものじゃなかったという。

数ヵ月後アメリカ部隊がレイテに上陸したが、バリンジャーは日本軍によるほかの財宝の移動を目撃した。今度はバグイオの日本軍司令本部から重い箱をトラックが列をなして持ち出し、町外れの病院近くの地下道へ運んでいた。バリンジャーの息子ジェンが我々に言った。「当時、日本人が思っていたほどの大きな秘密だったわけじゃなかったんだ。彼らはとても慌てていたし、そんなに注意もはらっていなかった。メディナの村人達は彼らを蹴っ飛ばして、地下へ押し込み蓋をしたんだ。日本人達みんなをね。」この行動に関する報告もバリンジャーによってOSSに連絡されなかった。この重大な機密のせいで、戦時略奪品に関するいかなる機密文書の追跡も、嘘や言い訳やキチガイでいっぱいの地下社会へ入っていくみたいにウサギの穴に落ちるようなものだ

(不思議の国のアリスからの例えだと思うのだが、底なし沼のような意味か?)

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:15 p.m. No.132874   🗄️.is 🔗kun   >>2875 >>9183

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>>132873

 

戦時中に略奪された金の延べ棒の動きを監視するアメリカ軍の努力はCIAの前身であるOSSの大きな責任だったことは事実だ。又、移されたり略奪された美術品を監視する責任をもつ特別な情報部隊もあった。例えば略奪美術調査部隊、遺跡グループ、美術品グループ、公文書などのグループだ。しかし、アジアでよりヨーロッパでのほうが効果があったようだ。ヨーロッパと比較するとアジア、太平洋での連合軍情報機関は不完全で協力し合わなかった。とにかく、東アジアでの貴金属の略奪と輸送を追跡する努力は、地政学、文化、言語が障害となり不十分なものであった。これらの記録のほとんどはアメリカの諜報部が握り、そして次第に何処かに消えてしまった。いったい何が起こったのだろう。当時、ヨーロッパでのOSSは他の情報部と連携して動いていた。しかし、競争も対立も激しかった。最も凄まじい縄張り争いのひとつが、ナチスの略奪品追及の中、米国財務長官ヘンリー・モルゲンソーとスイスのOSS長官でその種の問題に大変尊大な態度をとっていたロマンチスト、アレン・ダレスとの間に持ち上がった。枢軸国の略奪品は連合国の鼻先にある中立な安全地帯に移転されていた。スイスにいたアメリカ情報員はナチの金塊を載せた二八〇台のトラックがドイツからフランス、スペインを横切り中立国ポルトガルの安全地帯へ運ばれるのを目撃している。又、スイス財閥の所有で十字が描かれたトラックが中立を装いながら金を運んでもいた。しかしながら、戦時略奪の情報収集が分断されていたため、結局それらの報告書はヘンリー・スティムソンの陸軍長官の事務所には届かなかった。彼は略奪した金塊に格別な興味を示し、そのためにそれを考える専門金融グループをもっていた。その中に、スティムソンの特別補佐官ジョン・J・マッコイとロバート・ロベット、そして顧問のロバート・B・アンダーソンの三名がいた。戦争終了時に枢軸国の略奪品をどのようにするかという問題が、一九四四年(昭・十九)七月、戦後経済を計画するためニューハンプシャー州の避暑地、ブレトンウッズに四十四カ国が集まり議論された。この議題は最高秘密とされたが、解決できそうにもない国際金融制度の中に、抜け穴と不備が存在するということをはっきりとさせた。別の議案の中にプレトンウッド体制がある(メディアがそう名付けた)それは金(ゴールド)の価格を一オンス、三五ドルに固定すること、さらにアメリカ人が個人として金を輸入することを禁止したものだった。この条約に署名した中立国は知らないうちに盗んだ金塊や略奪財宝を受取らないと約束してしまったことになった。ただ、ポルトガルは自分の属領(植民地)一覧表にマカオを載せることを忘れてしまった。これが結果的には都合のよいものとなり、第四章で述べたように戦争が終わるまで、マカオは不正取得した、あるいは日本軍が略奪した金の世界的な貿易拠点となっていった。ドェイト・アイゼンハワー将軍に容認されていたヨーロッパと違い、太平洋南西部のマッカーサーはOSS が彼の管轄地域でいかなる足がかりも得ることを食い止めた。マッカーサーとその部下たちはいかなる干渉もなく自分達独自の特別作戦をオーストラリアの本部で練っていた。マッカーサーグループの情報集団はチャールズ・ウィロビーの指揮下にあった。

ウイロビーは一八九二年、ドイツのハイデルベルグで生まれ、T・シェップ・アイデンバッハ男爵とメリーランド州バルティモアのエマ・ウィルロビーとの間の私生児だった。男爵と彼女の関係は一九一〇年には気まずいものとなり、エマは十八歳になった息子と一緒にアメリカへ帰国した。そして軍へ志願し軍曹まで昇進した。彼は一九一三年、市民生活に復帰したが、資格がすぐ取れるゲッティーズバーグ大学へ入学した。将校として軍に復帰したウィロビーは、一九一七~一八年にフランスへ派遣され、ベニング要塞でマシンガンの扱い方を教えていた。その後数年間は米大使随行員として強いドイツなまりのスペイン語を使いながらベネズエラ、コロンビア、エクアドルに赴任した。一九四〇年、リーベンウォース要塞の参謀学校を卒業した後、マッカーサーの補佐官で兵站(へいたん)長としてマニラへ送り込まれた。

 

当時のダグラス・マッカーサーはフィリピン部隊における米陸軍元帥であった。重々しさや権威にあこがれたウィロビーは愛国者マッカーサーに畏敬の念をおぼえた。一九四一年の半ば、マッカーサーが米軍の新極東司令部司令官になると、ウィロビーにとってマッカーサーはまるで神のような存在となった。他のどんな性格よりも、その個人的な忠誠心に感動したマッカーサーは、ウィロビーを大佐にすると約束するとともに、情報部主席補佐官にひっぱりあげた。日本から攻撃を受けた時、ウィロビーはマッカーサーと共にコレギドールに移動し、その後一緒にオーストラリアへ行った。マッカーサーは自分の司令を受けた範囲の情報収集と特別作戦に関して絶対的な支配を望んでいた。その様な仕事はウィロビーの適性からみるとはなはだ疑問であった。何度となく彼は戦場での判断で大失敗したが、それでも敬服しながらすりよってくる彼をマッカーサーは好んだ。

軍事史専門のケネス・キャンベルに言わせるとウィロビーは本部からの指令がないのに、命令を受けたと言っては自分の不名誉な違反行為をごまかそうと企てたと言う。ウィロビーにとって、真実などどうにでもなるのだ。オーストラリアでウィロビーはフィリピンでゲリラ活動を行う連合国情報部を設置した。そして又日本の無線放送の謀聴、捕虜の取調べ、日本軍文書の翻訳などのために連合国翻訳通訳部門(Allied・Framslaton and Interpreter Section ATIS)を始めることにした。ATIS のほとんどが二世、つまり外国で生まれた二代目達だ。このケースではアメリカにいた日本人の両親から生まれた人達だった。しかしながら戦闘状態でゲリラに接近するウィロビーは、大胆さを望むマッカーサーにはあまりにも慎重すぎることがわかった。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:15 p.m. No.132875   🗄️.is 🔗kun   >>2876 >>9183

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>>132874

 

ウィロビーを情報収集の任務から切り離すため、マッカーサーは友人であり私的な弁護士のコートネイ・A・ウィットニーに特別な作戦を伝えた。ウィロビーは腹をたてたが、マッカーサーは将軍に引き上げることで彼をなだめた。こんなことからマッカーサーの旧友ホィットニーはジョーン・バリンジャーなどから届く略奪物資報告書を読んだり、この島での諜報作戦を実行するキーマンになっていった。OSS はこのことに関して何の役割も果たしていない。ホィットニーはフィリピンで政治と権力をもつすべての家族達と親しくしており、賢明かつ裕福なのでマニラでのコネクションはたくさんあり、特殊作戦にはピッタリだった。マッカーサーは一九二〇年代後半、ワシントンで法科学校を卒業したホィットニーをマニラでトップのデヴィッド財閥の弁護士事務所パーキンス・エンライルに就職させた。そこは、マッカーサーの財務部門を担当し、なおかつマッカーサー自身も投資しているフィリピン最大の金鉱山の開発会社、ベンゲット社の財務も掌握していた。真珠湾のころまでホィットニーはこの島で活躍するつもりで、政治、法律、財政的な策略などに自ら関わっていった。彼はサンタ・ロマーナのような男達から気に入られる事が出来た。いろいろな情報源、例えば前副長官レイ・クレインなどによると、サンタ・ロマーナは一九〇七年ルソン生まれ、マルセロ・ディアズ・サンタ・ロマーナとペラギア・ガルシアの間にできた大勢の子供の一人だという。大人になり彼は、ガルシア、ディアズあるいはサンタ・ロマーナと使い分けをしてきた。セベリーノ・ディアズと名のっていた頃、富裕な若い相続人エバンジェライン・キャンプトンと結婚し、カリフォルニアで大学教育を終えている。一九〇七年、サンフランシスコに大地震と火事が起きた当時、彼女の家族はストックトン通りにホテルを所有していた。震災後、ホテルを建て直し、新しいオーナーのトレイク・ウィルシアーに売却した。(今日もそこは「キャンプトンの場所」と呼ばれ、キャンプトンのいるホテルという名前になっている。)

 

一九三〇年代にはアンジェリーナ(キャンプトン)を連れてフィリピンへ帰り、彼女の相続財産で事業を始めた。そこで彼は、マッカーサー、ホィットニー、アンドレアス、ソリアーノ、サン・ミィグエル・ブルーベリーのオーナー、そして島の富裕層達の社交場の仲間入りを果たした。サンティとアンジェリーナの間には三人の子供がいた。ピーター・ディアズ、メリー・アン・ディアズ、ロイ・ディアズだ。アンジェリーナは第二次大戦が始まって数週間もたたないうちに自分の財産を子供に残して別居し、その後、日本軍の爆撃で死んでしまったと言われている。サンティと彼女の結婚は早々に冷え切っていた。カソリックのフィリピンでは離婚は禁止されている。一九三六年、ディアズの名前をはずし、セバリーノ・サンタ・ロマーナの名前を使い、サンティはジュリエット・ヘルトという可愛い教師とミンドロ島で結婚した。そしてまもなくダイアナという娘をもうけた。結婚迫る時に、彼は教師になるつもりだと言っていた。彼は重婚を犯していたのでこのようなごまかしが必要だった。サンティは戦争中、島にいて、ホィットニーの最も役立つ情報員の一人になっていた。当然、サンティが一九四五年に小島大佐に対して行った拷問は、ホィットニー、マッカーサーの弁護士、飲み友達が公認したものだった。ホィットニーはマッカーサーの許可なしでは何もしなかったのだから、その行為をマッカーサーとその取り巻きが十分承知していたことは言うまでもない。日本軍が降伏した時点で公式にはホイットニーの特務作戦は終了している。ウィロビーのG―2情報戦略部隊は形式上存在し続けたが、ウィロビーとホィットニーはマッカーサーについて日本へ同行した。フィリピンはホィットニー個人の権力の元であり、マッカーサーの権力の源のひとつであった。ホィットニーとマッカーサーは進行中の山下将軍の公判を細かく監視し、我々が見てきたとおり、訴訟過程でも頻繁に介入していた。彼らは又、山下の部下に対する尋問の通達を延期している。マニラにおけるマッカーサーの仲間で別の鍵を持つのがジョゼフ・マックミッキングだ。彼は戦前、コートニー・ホィットニーの弁護士仲間だった。日本軍が侵攻してきた時、ジョー・マックミッキング大尉は、ウィロビー大佐の為にG2の補佐を勤めることになった。彼はマッカーサーと共に硝戒艇でコレヒドールからミンダナオのドール・ピニアプルへ脱出し、飛行機でオーストラリアへ向かったバターン兵士の一人である。一九四五年、小島大佐の拷問中、マックミッキングはG2でサンタ・ロマーナの直属の上司であり、マニラのサンティーと東京にいるホィットニー、マッカーサーとの間のつなぎ役でもあった。小島大佐が口を割り、サンティが金の延べ棒を発掘し始めると、マックミッキングは一夜で異常なほど羽振りが良くなり、フィリピンのスペイン高官、ゾーベル・アヤラ家の女相続人メルセデス・ゾーベルと結婚した。サンティの発掘が進むにつれ、マニラでの財産が激増していったジョーマックキングはアヤラ家が世界の富豪に成り上がる手助けをしながら世界中の不動産をゾーベル・アヤラ財閥が獲得するための策を考えた。ゾーベル・アヤラ家がそんなに貧乏だったとは思えないが、マックミッキングほど懐が豊かだったわけではない。今日の巨大なゾーベル・アヤラ財閥の財産の裏には、フィリピンの星であるマックミッキングという金脈が控えていたのだ。一九六〇年代初期、マックミッキング夫妻はフィリピンで職業訓練、芸術、生涯活動を促進するアヤラ基金を創設した。これは一九八三年にサンフランシスコにあったキャンプトンホテルを買収したアヤラ財閥の動きと逆行している。ホテルは優雅でお洒落な高級ホテルに変身していった。OSSはかろうじてサンティの拷問に関与していくだけだった。山下将軍が降伏した八日後のことだ、前のOSS職員、エドワード・G・ランスデール大佐がサンフランシスコからマニラに到着し、何をするべきか探し始めた。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:16 p.m. No.132876   🗄️.is 🔗kun   >>2877 >>9183

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>>132875

 

ランスデールは一見愛嬌があり、興味深い性格を持つ男だが、厄介な秘境に入ってきた捕らえどころのない化け猫だ。後に彼はアメリカ人の中で最も重要な冷戦の兵士の一人として、大きな神話の象徴となって行く。(有名かどうかは各人の見解によるが・・)グレアム・グリーンなどの小説家は、彼をアジアに度を越したアメリカ方式を推進した異常な性格の持ち主として登場させている。ランスデールは多様なキャラクターを演じつつ、常に舞台の上に立っていた。その生活がごまかしばかりなので、でっちあげた神話が現実を隠してしまっている。そこに二つの考え方がうまれる。――ランスデールはアジアの救世主だというものと、戦犯であり極右の回し者だという二つだ。(長年ランスデールと事務所を共有し、米軍事情報将校であり歴史家でもあるフレッシャー・ブロウティは、ケネディ暗殺のときに撮られたランスデールの写真を指差して、他の人たちが確認した事は自分もそうであると断言した。オリバーストーンはJFKの中で変装したランスデールが大統領暗殺に関与させていた。)ランスデールのような口からでまかせをいう広告屋の様な奴が、どうしてあんなに冷戦中に影響力を行使できたのかは謎のままだろう。謎を解く鍵・・それは小島大佐の拷問だった。一九四五年マニラに上陸したランスデールは三七歳のごく普通の男だった。戦時中はずっとサンフランシスコにいてOSSのためのプロパガンダを書いて暮らしていた。一九〇八年、信心深い中流家庭に生まれ、母はサイレンス派、父は敬虔な長老派だった。子供の頃、父からあらゆる宗教の教えを学び、日曜学校ではアメリカの田舎道に記されているような話をお説教として聞かされた。「仕事をいったん始めたなら達成するまでやめてはだめだ。大きな仕事だろうが小さな仕事だろうが働け。やるならやる。そうでないなら全くやるな。」四十歳になった彼は、この言葉をいつも繰り返していた。そうクジラの潮吹きが三十分も続くように・・。CIAの現場に出てからは、フィリピン、ベトナム、日本で部下達にこのセリフを教え、秘密作戦の間の合言葉として使い、アジア秘密警察幹部には食前のお祈りの言葉として使った。

 

数年後サンティは、このランスデールの習慣ともいえるおまじないの言葉が気に入り、自分の遺言にすら取り入れた。世界恐慌の間、ランスデールは軍の教育課程の中でUCLA のジャーナリズムを習得した。卒業後、ロサンゼルスとサンフランシスコの広告代理店でコピーライターとして働き、機転がきく彼は重宝された。パールハーバーの報道を聞いた時、仕事を中断し軍に志願した。そして軍の情報部とOSSで心理戦争戦略を計画する部署に働き口をみつけた。サンフランシスコのデスクワークをしつつ、日本軍が混乱させる方法を考えて日々を過ごした。彼が「悪魔の口」と呼んだビラは日本の古い格言を使い、それを用いて日本の戦争の誤りを指摘した。「先に悪い事をした者は必ず負ける。(パールハーバーを忘れるな!)」トルーマンが一九四五年九月にOSSを閉鎖する命令を出した時、ランスデールにチャンスがやってきた。数週間しかないところで、ドノバン将軍と准将軍ジョン・マグルーダーは全職員及び海外に派遣しているOSSの雇用を守るため、他の情報局や他国の情報部、そして場合によっては世界中の各分野に秘密情報員を雇う余力のあるGEのような私企業へ、経済情報やワシントン政府のお気に入りとして移籍できる道を模索した。ランスデール大尉はマックミッキング大佐が長官を務めるウィロビー将軍のG2フィリピン部門へ転籍するチャンスを与えられた五十人のOSS職員の一人だった。マニラに着いたランスデールは戦争が終わったばかりの光景に衝撃を受けた。街は海軍少将岩淵の部隊の謀略で廃墟となっていた。おぞましい話を耳にし、過度な残虐さから日本人に対して嫌悪感をもった。

彼の一九四〇年代の日記には憎しみの言葉がいっぱいだった。一九四六年十一月十日は「多くのフィリピン人が拷問された・・・彼らは血まみれの肉片になるまでボロボロにされ・・・」、と書いてある。

彼はG2の事務所で日本軍兵士によって隠匿された金塊関連のファイルをみつけ、サンティによる小島大佐の拷問のことを耳にした。彼はサンティーの拷問を指揮しながらその主導権を握った。マッカーサーチームのほとんど、ウィロビーの上級将校達は日本に行き留守だったので、ランスデールは、自分の思うままにできた。マニラでは、G2は良くも悪くもランスデールのものになっていた。彼はフィリピン人やアメリカ人の事務局員に、日本軍が行った戦時略奪のすべての証言をファイルから抜き出し、徹底的に調査するように指令した。後日、このことに関して彼が述べている。「司令部の中で我々G2の事務所が報告書の宝を握っていた・・・私の毎日の仕事はその内容に精通することで・・・私は情報部員に今までに判明している事を整理し、もっとたくさん手に入れる事を課題に与えたのだ。」サンティは小島大佐からはるかに大きなものを引き出した。

 

十月初旬、何日もの拷問の後、小島は口を割り、知っているすべてを漏らした。ランスデールは護送隊を組織し、サンティと小島を連れ、山下将軍が作った一ダース以上のゴールデン・リリー地下貯蔵庫をたどる旅に出発した。それらは、マニラ北方の高原、西のバグイオから中央のバエンバンの三角地帯、そしてルソン島北端、アパリなどであった。ランスデールは十月初旬に帰り、すぐにマックミッキングに報告し、急いで東京へ飛び、ホィットニー、ウィロビー、マッカーサーへ説明した。そして指令を受けワシントンへ飛んだ。ホィット・バンデンベルグ将軍の下で新しくCIG(中央情報集団)が創立される直前で、OSS最後の戦略情報局長官マグルーダ将軍へ報告した。二ヶ月前にランスデールをマニラへ配属させたのはマグルーダだった。だからヴァンデンベルグとマグルーダは、トルーマン大統領の国家安全補佐官で閣僚でもある海軍大佐クラーク・クリフォードのもとへランスデールを送り概要を報告させた。トルーマンはこの発見を機密とし、出来る限り多くその略奪品を発掘するよう決定した。この段階では、どのようにしてこの内容を明らかにするのか、又はトルーマン大統領が何をしたのかをはっきりと言う事は不可能であった。サンティの回収作業に関してはすべてが機密事項であった。マッカーサーと話し合うためにロバート・B・アンダーソンがランスデールとともに東京に舞い戻った事はCIAのふたつの異なる高官ルートから知ることができた。数日間の会議を終え、マッカーサーとアンダーソンは秘密裏にマニラへ飛び、ランスデールとサンティの案内で山中のいくつかの施設と、ルソン地方アパリ周辺の六ヶ所の地域を回った。

アメリカ軍から選ばれた技術者達とサンティは一緒だったので、数週間のうちに地下金庫のいくつかを開くことができた。そしてマッカーサーとアンダーソンは金の延べ棒がずらっと並んだ所を散歩することになるのだ。

他の施設も数ヵ月後には開放された。すべての回収作業が完了したのは、一九四五年後半から四七年初頭までで、二年間を費やしたことになる。この地下金庫の中身と、アメリカ軍調査員が日本国内で発見した財宝をみれば、日本軍がそれまでの数十年に東南アジアで何十億ドルもの金塊、プラチナ、ダイヤモンド、宝石を略奪したことは明らかである。この大半は海路で、もしくは中国を通り朝鮮から日本へ到着した。しかもフィリピンにはまだたくさん隠匿されたままだ。アメリカの公式な(新聞等)ナチス略奪金の回収高は、いまだにたったの五五〇トンにすぎない。アンダーソンはもっと別の興味深いことを知っていた。彼の仕事仲間が見た写真には、ヒットラーがポーランド、オーストリア、フランスで略奪した金塊を積み重ね、その山のてっぺんでアメリカ兵が、それもアンダーソンの事務員がすわっていた。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:16 p.m. No.132877   🗄️.is 🔗kun   >>2878 >>9183

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>>132876

 

連合国の指令でその写真を見ることはそれが最後となり、それ以降それに関して話すことも許されていない。同じ情報筋の話で、ヨーロッパのある修道院の中庭にナチスが略奪した一万一千二百トンの金塊が集められたというのもある。ナチスが負けた後、OSSや他の連合国側の情報組織は芸術品や略奪された金を求めてドイツとオーストリアで捜査した。ソビエト軍団と特別部隊はロシア領域で同じことをしていた。金の回収よりもっと多くのことが美術品の回収で起こったことが知られている。百トンのナチ金塊がドイツのマルケル近くの塩鉱から回収され、フランクフルトへトラック護送団が運んでいたが、なぜか途中で消えてしまった。それは強奪されたのだと言われるが、修道院中庭に積まれた延べ棒がそれだったとするのが真相ではないだろうか。こうした行動の目的が、ある時に「黒いワシ」と呼ばれる様になる最高機密プロジェクトだったのだ。その陰謀を大統領に最初に示したのは、陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンと戦時顧問で後の世界銀行理事長、ジョン・J・マッコイ、後の防衛長官ロバート・ロベット、後の財務長官ロバート・B・アンダーソンだった。スティムソンは枢軸国の持つ略奪品のすべてを世界中の政治的な基金として融資すると提案した。しかし、すべての略奪金塊の正しい所有者を決められるかどうかが困難な以上、より良い選択は回収をひとまず中止し、戦後に権力側に親しい国を救う基金設立するほうが先決だった。これは非公式に「ドイツの黒いワシ」、後に「黒いワシ基金」とよばれた。これは、ドイツ銀行の隠し金庫から回収されたナチの金の延べ棒に刻印されていた黒いワシとカギ十字ちなんでいる。何人かの情報では、黒いワシ基金は欧米で最も力のあるロックフェラー、ロスチャイルド、オッペンハイナー、ウォールバーグ等が協力したからこそ立ち上げることができたという。輝かしいウォール街の弁護士スティムソンは五人の大統領――タフト、クーリッジ、フーバー、ルーズベルト、トルーマンの色々な部署で働くという輝かしい経験をもっていた。しかし、その異様な経歴はもはや終わろうとしていた。彼は、一九二〇年代にフィリピン総督として赴任していたのでマニラに詳しかった。ハーバート・フーバーは彼を州知事とよんでいた。(フーバーと同じくスティムソンもマッカーサーのことを高く評価していた)

 

パールハーバーの時、スティムソンはすでに七〇歳だった。陸軍省に四人の補佐官を選定する権限をもつことで大きな戦争責任を果たした。ロバート・ペテルソン(法律家で前連邦判事)、ハーベィ・バンディ(ボストンの法律家でイェール大卒)、天からの授かり者とスティムソンが呼んだ二人の機関車、ジョン・マッコイとロバート・ロベットだ。彼らに共通しているのは、ハリマン、ロックフェラーとの関係が密接だということだ。ロバートの父はかつて日本から南満州鉄道を買収しようとしたEH・ハリマン鉄道王の右腕をつとめていた。その父の足跡をたどりロバート・ロベットも国際通貨の取り扱いや、援助活動をしているウォール街のブラウン・ブラザーズ・ハリマン財閥でアベレル・ハリマンと共に勤めていた。ジョン・J・マッコイは対照的にハーバード法律学校を卒業したフィラデルフィア出身の貧乏人で、ウォール街のクラバス財閥と共同してユニオンパシフィック鉄道の買収契約で七七〇〇万ドルをかせぐ手助けをしてアバレルハリマンの賞賛を得た。(マッコイはそのような割り振りをモルガン家の指示の下に操作していた)陸軍省で働きながらスティムソン、ロベット、マッコイは金融界と密接にからみながら戦後のアメリカに誕生する国際安全制度の助産婦になっていった。マッコイは紛争の調停人でありプロの黒幕だった。自分の仕事は命令系統が全く交わらないような組織全体の頂点になることだと言っている。戦時中、彼は世界中を旅し政治家や銀行家あるいは将軍達と問題解決に努力した。彼は舞台裏での策略に大きく関わりキエロ(古代ローマの哲学者)の言葉、「戦いのカナメは金である。」という言葉を十分理解していた。金は冷戦においてもやはりカナメだった。頭の回転がよいマッコイは国際的な資金の収支のすべてを知った。戦後、彼はロックフェラー家とそのチェース銀行の業務を取り扱う法律会社ミルバンク・ツィードと共同し外務委員会の評議長、世界銀行理事長、チェイスの責任者、フォード財団の理事長へとなっていった。彼こそが、スティムソンの考えを採用し現実にした人間であり、黒いワシ信託を実現した張本人だったのだろう。それに比べてロバート・アンダーソンは不運な引退だった。一九一〇年六月四日、テキサス州ブルレソンで生まれ、テキサス大学で法律を学ぶ前に少しの間、高校の教師をしていた。後に州議会選挙で選出され、一九三三年、テキサス州司法長官助手に指名される。そして翌年には州税務長官となった。何かの関連でアンダーソンは富裕層のための金融コンサルタントになり、大きな成功を夢見て政界を去った。一九四〇年代初め、彼はテキサス中の農場や油田を所有する豊かなW・T・ワグナー遺産基金の支配人になっていた。金の扱い方があまりにも巧みなので、ルーズベルト大統領は枢軸国の略奪物資を運用する責任を持っていた陸軍長官スティムソンの特別補佐官に任命した。海軍のクラーク・クリフォード大佐はアンダーソンの推薦する親しい友人で、ランスデール大佐から概略の説明を受けているトルーマンの国家機密担当補佐官だった。アンダーソンとクリフォードは協力して戦後のアメリカ政界の中で巨大な権力の斡旋屋になっていった。スティムソンは一九四五年に現役を退き、マッコイも当時は政府を去っていた。なのに、彼らとアンダーソンは「黒いワシ信託」の監視に関わり続けていた。

 

前CIA副長官レイ・クラウンによると、サンタ・ロマーナが回収した金の延べ棒は「四二カ国、一七六の銀行口座に預けられた。」そうだ。アンダーソンは非共産国を通して政治活動資金を分配しながら黒い口座を設立し世界中を旅していった。後に我々はその幾つかを重点的に調査した。一九五三年、アンダーソンに報いるためアイゼンハワー大統領は彼を海軍書記官として顧問団に推薦した。翌年には国防副長官に昇格した。第二次アイゼンハワー大統領時代、一九五七~六一年の間アンダーソンは財務長官に任ぜられた。その後アンダーソンは民間の生活にもどるが、ポール・ヘリウェルが戦後構築した世界中に広がるCIAの銀行情報網に深く関与し続けた。結局これが、CIAとグルになって資金洗浄と黒い金をこっそり動かすことで大銀行のオーナーを儲けさせるためのBCCI(国際信用通商銀行、アラブ・パキスタン銀行)に関与することになっていくのである。ウォール・ストリート・ジャーナルは「世界で最大・最高のペテン」と書いた。BCCI の大敗は、アンダーソンの支援者を罠にはめてしまうことになり、クラーク・クリフォードは起訴されることになった。

クリフォードとその仲間でファースト・アメリカンバンク・シュアーズの代表ロバート・アルトマン、そして首都にいるBCCI の幹部達は、全面的な調査により、BCCI へ隠匿目的の政治的利益供与をした罪で起訴された。

ワシントンポスト紙のベルナルド・ノジターの記事で、アイゼンハワー大統領の財務長官時代のアンダーソンが、テキサスの石油王から二十九万ドルを受け取っていたと報道されて以来、彼の名声は崩壊の一歩を歩み始めた。後に彼は脱税と資金洗浄の罪に対し州へ抗告していたが失意のうちに死亡した。どのようにしてアンダーソンやマッコイらが黒いワシ信託を運営したのかを逆から調べることはこの本の焦点からはみだしてしまう。

まだ公開されていない書類が多すぎるので、今のところ手にした証拠と知っている関係者が今でも活躍していることで自己満足するべきである。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:16 p.m. No.132878   🗄️.is 🔗kun   >>2879 >>9183

Originally posted at >>>/qresearch/20473979 (251137ZFEB24) Notable: GOLD WARRIORS "金の戦士" 【7】

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>>132877

 

唯、ブレトンウッドで何が協議されたのかを知ると、我々は秘密組織の一端を見ることになる。長いヨーロッパとアジアの戦争で打ち壊され破産した連合国各国にとって、世界経済のドル本位制をアメリカが行う以外に選択肢がなかった。経済学者は第二次大戦の終わりを世界通貨体制元年と見ていた。チューリッヒにあるBIS(BANK OF INTERNATIONAL SETTLEMENTS 国際決済銀行)が枢軸国の略奪金を洗浄しているという容疑が広がっていたため、世界の将来的な金融決済と通貨交換の役割を果たすためIMF(国際通貨基金)と呼ばれる新しい中央金融取引場を立ち上げることになった。金(GOLD)は一オンス三五ドルに固定されており、すべての通貨はドルに対して評価付けされていた。この事はある疑問、例えば米ドルと英ポンドの相対的な関係についての疑いを取り払っていた。英国はこの計画でアメリカの仲間だったのに、アメリカに対して深い恩義を感じていた。

 

一九四一年、英国は三百億ドルの戦争債務を背負ったおかげで戦後計画では後部座席においやられてしまった。どのIMF加盟国も自国通貨が米ドルで換算される事に同意した。各国はIMFへ各国が通貨を発行するに見合うだけの十分な準備高としてゴールドと通貨を貯金した。IMFの主たる機能は一方からもう一方へ資金を一時的に移動することで、それらの通貨の価値を安定させることである。それが世界的な組織である以上、最も重要な後援者はアメリカ政府である。連邦統計では戦争終結時点でアメリカには世界の公式な金準備高の六〇%を持っていることを表していたので、他の国の通貨を操作することが出来る立場にワシントンは置かれた。

一九六〇年になってIMFのヨーロッパ加盟国は公式なアメリカの金準備高よりはるかに超過したドルを発行していることがわかってきた。ひとつの解決策はドルを引き下げてしまうことだ。しかしワシントンはこれを拒否した。その代わり、米国はヨーロッパの中央銀行、英国銀行、スイス銀行と手を結び、英国銀行が運営するロンドン金市場を開設した。その考え方はこうだ。つまり各国から集められた公的な準備金を金の私設市場に十分に投入すれば一オンス三五ドルを維持できるのではないだろうか。暫くはその様になっていった。一九六八年になりフランスが突然、金市場から去った。英ポンドは切り下げられ、金の市場は急上昇した。ロンドン金市場を支えるため、土壇場でアメリカ空軍は金をフォートノックスからロンドンへ緊急空輸した。英国銀行へあまりにも大量の金を運んだため、金を収容する部屋の床が崩壊してしまった。それは金市場がもうすぐ崩壊する前触れだった。

スティムソンのチームで設立された秘密の「黒いワシ信託」は戦後の経済状況の中ですっかり大きくなった。それは、区別された特別な部屋に置かれ、そこで闇金市場を作り、アメリカ政府と、関連した隠れた金融財閥にゆだねられた。この黒いワシ信託と、デビアスに認定されているダイヤンモンド協会、南アフリカのオッペンハイマー家に認定されている金協会とは確かに同じにおいがする。提供された情報によると、これら似た類は十分な理由があるからこそ存在するのであって、違った多くの顔をみせながら生き延びるのだそうだ。ダイヤモンド協会はたくさんの原石を蓄えることができ、市場へ送る宝石の量を調節することによって相場を人工的に高く保ち、その希少性を印象付けている。同じ様なやり方で黒い金の協会は数千トンの金の延べ棒を所有し(それは公式な金の供給量よりはるかに多い)その金の影響力を秘密の不正資金として慎重に使用することで金価格を不自然に高く保っている。もし、略奪された莫大な量の金の回収を、信託されたわずかの人しか知らないのなら、ナチや日本などの枢軸国に盗まれた国家や人民はそれを取り戻そうと訴えることはないだろう。又、そんな大量に金塊が闇に存在することが議論され、大衆が知ることになれば一オンス三五ドルの固定相場などいっぺんに崩壊してしまうだろう。あまりにも多くの通貨がドルとリンクされ、そしてドルはGOLD とリンクされているので、世界中の通貨が急落すると金融恐慌の原因になる。その秘密が保たれれば保たれるほど、一オンス三五ドルという金価格が長く守られ、金に連動する通貨は安定するだろう。その間に闇のゴールドを準備金として供給すれば各国の中央銀行は強化されるし各国政府も元気になれる。準備金として闇のゴールドは、みせかけ、もしくは見せかけるような目的にのみ使うよう厳しく制限され、それらの銀行に備蓄されていた。このことは米国がそれらの国や中央銀行、有力銀行へ圧力を掛け続けることを可能にした。国家と指導者がワシントンとあまりにも長く協力し続け、冷戦で連合し続けたために眠らせていた金の延べ棒は利益供与の財政原資として使用されてしまった。現実に金の延べ棒そのものを与えるのではなく金証券やその他の金派生商品の手段で贈り物や賄賂として使うことができた。政治家、軍指導者、政治的な大物とその家族を儲けさせるための信託が創設された。アンダーソンやマッコイのような賢い男の手にかかれば可能性は無限だった。フィリピンのゴールデン・リリィー地下貯蔵庫から延べ棒を回収すればするほどもっと多くの金の注文が中央銀行や援助団体の個人買取人から注文があったようだ。後の章で、これら非合法な資金が巨大な賄賂として表面化したり、有名なところでは、イタリア、日本、ギリシャで選挙中の買収に(もちろん他の国でもあったであろうが)使われたたくさんの証拠文章をおみせしよう。

 

幾つかの国際的な有名銀行は、その地下金庫に闇金数十億ドルを慢性的に持っていた事を明らかにしている。あまりにもどっぷり漬かっているため、彼らは延べ棒を返却することを拒否し、さらにあるケースでは前の持ち主やその遺族の文書が偽造品と非難しそれらの人から騙し取ろうとするほど中毒になっていた。実際、ある経営者などは、もし彼らが権利を主張しようものなら、その証書が偽物だとわめくばかりか殺人の脅迫めいたものすら与えた。ある場合では、その様な闇の準備金の使いすぎは倒産する以外にもはやその立場をすてる方法がなくなってしまつた。ある意味、ランスデールよりサンタ・ロマーナの回集金を上手に使った者はいなかった。最初、彼の役目はマニラでの厳格な進行係であり、ゴールデン・リリィーの回収を監視し、延べ棒の在庫を調べ、スービック海軍基地か空軍のクラーク空港の倉庫へ陸送することだった。延べ棒は陸軍の護送団、軍輸送機、軍船などにより十分な機密を保ちつつ移送されねばならなかった。アイゼンハワー大統領がアンダーソンを海軍長官に任命した理由のひとつがこれだったのだ。この大量な延べ棒の運搬は積荷明細書や保険明細文書で確認されている。そして何年分かの多くの書類により関わっていた個人名、ブローカーの名前、そして延べ棒を船積みしてどこの有名な銀行に運ばれたのかも明らかである。この船積みの件は後の章でのべることにしよう。文書はすべてCDに収納してある。ウィロビー将軍は人を見る目がないのでランスデールを単なる自惚れやとして嫌っていた。だからフィリピンでランスデールをG2副長官にした時も一九四七年まで少佐に昇進させなかった。新しくできた中央情報部長官、ホィット・バンデンベルグ将軍はランスデールを空軍に転籍させ彼を救出した。コロラドの戦略情報学校で数ヶ月過ごした後、空軍中佐に昇進した。そしてフィリピンには空軍大佐として送り返され、CIAの気違いと呼ばれていてそして、OPC(OFFICE of POLICY OORDINATIPN 政策調整事務所)という汚い策略を練る部門の長であるフランク・ヴァイスナーの為に働くことになった。ランスデールは急速な昇進を果たした。普通であれば彼の成功は新しい独立国家でラモン・マグサイサイをアメリカ人にしてしまうほど手なづけることに成功したたためだと言われるが、ランスデールの誇張された成功は、共産主義のフク団の暴動を阻止した事とされていた。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:17 p.m. No.132879   🗄️.is 🔗kun   >>9183

Originally posted at >>>/qresearch/20473981 (251138ZFEB24) Notable: GOLD WARRIORS "金の戦士" 【7】

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>>132878

 

フク団は富裕なスペイン人や華僑の地主にこき使われた世代による貧乏な田園の抗議行動だっただけで、フィリピンの真実を知っている人は誰もその筋書きに納得しなかった。フク団の連中はマルクスについて(共産主義)なんて何も知らなくて、欲深い地主に対する戦いを支援するあらゆる抗議活動に参加しようとしていた。常に広告屋であるランスデールは撮影クルーに村を舞台としたフィリピン特別部隊によるでっちあげ攻撃をフィルムに収め、次の日にはよく訓練されたマグサイサイの「村の自由」を上演した。これではまるでハリウッドではないか。何がランスデールを偉大な冷戦の名士にしたのかはほんの少ししか知られていない。知られている方法とは、彼の仕事、即ち山下の運転手への拷問、サンタ・ロマーナの発掘回収、そして「黒いワシ信託」を利用したことだ。彼は中年時代を諜報員として生きてきたので、ワシントンで起こった全てを全部自分の仕事だったと信じさせ、権力を持つ男だとみせかけることは簡単なことだった。敬虔な中西部の家族と古めかしい教訓話は彼の魅力であり、彼のアジア改革のためにはアメリカのおおいなる使命があるのだという非現実的な発想はアレン・ダレス、ジョン・フォスター・ダレスがまじめな顔して広めていたが、彼等こそアジアの体験がなく、ワシントンでもっと知るべき人達だったのだ。ランスデールが日曜の夜のパーティでダレス兄弟と意気投合したのはラッキーだった。マニラの米大使レイモンド・スペランスへ送られた書簡にはアレン・ダレスはランスデールを「俺達の友達」だとよんでいた。ダレスは一九四五年にランスデールをベトナムへ送り込んだが、アイゼンハワーには「最高の男」の一人を送りますと話していた。アイゼンハワーはランスデールのフィリピンでの冒険を皮肉めいた冗談ときつい当てこすりを言いながらも楽しんで聞いていた。ランスデールはリチャード・ニクソンとも親密だったが、それはあまり良い結果を招いてはいない。もうひとつの特筆すべき事はランスデールの目には不敵な輝きがあり、エルマー・ガントリーと違い彼はバカだからどんな犠牲を払ってでも止めさせなければならないと言っていた。

「The Phoenix Program」の著者、ダグラス・バレンタインは言っている。「ランスデールはマジソン通り(広告業界のこと)の言葉を使ってボーイスカウトのようにキャアキャア綺麗な事を言っているが、裏側では自分のひねくれた残虐な喜びを隠しているのさ。」ランスデールが行ったアジアでの危険な行動は例外なく高価な失敗だった。アレン・ダラスはフィリピンでのCIA活動費として五百万ドルを与えた。しかしその資金はランスデールの応援者マグサイサイに渡り彼は飛行機事故で早すぎる死を迎えた。その話は「マルコス王朝」に詳しいが彼のフク団への鎮圧は詐欺行為であると広く知られていた。ベトナムで彼はまず千二百万ドルの闇金をばら撒き、ディエム家に還元することで盛り上がりつつあった活動を後退させ、誤った方向へ導こうとした。彼は、この本にでてくる多くの人と同じ様に無限の秘密基金の出し入れから得られる権力を愛し、ウィロビーと同じく自分の失敗した秘密を隠すことに成功した。・・・正に国家機密の覆いが本質だ。一九五〇年代後半、彼はフィリピンで厳選した暗殺団を伴って日本に出入りしていた。それはハンサムで冷血な暗殺者、ナポレオン・バレンチノというお気に入り達だった。ランスデールをよく知るアメリカ将校の娘は、どうして彼が日本に来たのかを語った。「フィリピンから、暗殺者としてよく知られてる人を連れてきたわ。子供だったから私は彼に興味をもったの、それと彼の銃にもね。日本では普通、誰も持ってないでしょ・・・。ランスデールの考えたことと、自分の政府が人を暗殺したこと、ショックでがっかりしちゃったわ。」思い返せば、ゴールデン・リリィーや黒いワシ信託の設立は楽な分野だ、彼らは単に他人の金を使う事に関わっただけなのだから。それほど多くの秘密資金が冷戦中に諜報資金として作られるその元々の目的を探るのはそんなに簡単ではない。

日本や、又別の国で極端な秘密ゆえ、これらの巨大な活動資金がすぐに不正な手の中に落ち、今日まででもそのままだ。その途中で多くの嘘は必要だったし、殺人ですら必要だった。サンタ・ロマーナの回収や黒い闇基金を人々に知られないようにするため戦争が終わった時、日本は瓦礫となり破産し、決して何も盗んではいないのだとワシントンは主張していた。これはひどい秘密の始まりにすぎなかったのだ。

(訳者より。) 各国の中央銀行に備蓄された準備金がなくなってしまった状況は、きっとそうなのだろうが、そのメカニズムは訳していてもよく分からなかった。説明不足なのか、私の頭が悪いのだろうか。

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:17 p.m. No.132880   🗄️.is 🔗kun   >>2881 >>3143

Originally posted at >>>/qresearch/20474319 (251252ZFEB24) Notable: アーカイブ - 2024年2月24日のCPACでトランプ!!/「起こるはずのない選挙に勝ったので、彼らは私に腹を立てている」 - Q+通信 5年のデルタ

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>>>/qresearch/20469157 Q Research General #25109: Haillaery Nikkclinton Edition

>>>/qresearch/20469768

 

アーカイブ - 2024年2月24日のCPACでトランプ!!

注: 以下は cpac ラリーのメモです。

= = = = ===

ライブ: ドナルド J. トランプ大統領、DC で開催される CPAC 2024 で演説 - 2024 年 2 月 24 日

https://youtu.be/brsxl6BU6M0

    • -

djt: Cpacの権力者、世界中の保守・ポピュリストのリーダーたちの名前を読み上げる。

全員がトランプを支持している。

 

DJT: 私の予測では、バイデン政権の4ヵ月の間に、4,000万人から5,000万人の不法滞在者がアメリカ全土に押し寄せるだろう。

 

トランプ大統領:4年前、私はあなたに、ペテン師ジョー・バイデンがホワイトハウスに入れば、国境は廃止され、中産階級は壊滅し、私たちのコミュニティは流血、混乱、暴力犯罪に悩まされるだろうと言いました。すべてにおいて正しい…もし2024年にペテン師ジョー・バイデンと彼の凶悪犯が勝利したとしても、最悪の事態はまだ来ていない。私たちの国は、想像を絶するレベルにまで陥落するでしょう。

 

トランプ大統領:武器化された法執行機関が保守派や信仰を持つ人々を狩る一方で、宗教、ハマス、アンティファが我々の通りを恐怖に陥れ、彼らの残忍なイデオロギーが我々の学校を支配するだろう。

 

トランプ大統領: ペテン師ジョーとその手下たちが君を閉じ込めた、それは隷属と破滅に向かって突き進む特急列車だ。

 

DJT: 私は反体制派です

 

続く

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:17 p.m. No.132881   🗄️.is 🔗kun   >>2882 >>3143

Originally posted at >>>/qresearch/20474386 (251308ZFEB24) Notable: アーカイブ - 2024年2月24日のCPACでトランプ!!/「起こるはずのない選挙に勝ったので、彼らは私に腹を立てている」 - Q+通信 5年のデルタ

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>>132880

 

>>>/qresearch/20469768

トランプ大統領: 私は、ジョー・バイデンとその一味の非常に悪い人々から、この囚われの国を解き放つためにここにいる。とても病んでいる人々。賢い人々。知的な人々。しかし、彼らはアメリカの自由を破壊しようと躍起になっている。

 

トランプ大統領:彼らは我が国を破壊したいのか、それとも愚かなのかのどちらかです。彼らが愚かだとは思いません。なぜなら、彼らのように選挙で不正行為ができる人は愚かではないからです。つまり、彼らは私たちの国を破壊しようとしているのです。

 

トランプ大統領: 素晴らしい未来を達成するには、まず制御不能な政治階級の鎖を振りほどかなければなりません。それは、ペテン師ジョー・バイデンに「あなたはクビだ!」と言うことから始まります。ここから出ていけ!あなたは私たちの国を破壊しているのです!あなたは解雇だよ、バイデン。ここから出て行け!

 

トランプ大統領: あなたは何年もの間、ワシントンの汚水溜め全体が勤勉なアメリカ人の富、希望、夢を糧にしているのを見てきました。本当に勤勉なアメリカ人。彼らは雇用を奪う貿易協定の利益をむさぼり食ってきた。彼らは終わりのない戦争の戦利品をむさぼり食ってきた。そして今、彼らが切望しているもの、彼らが強く望んでいるものは、理由は何であれ、恒久的な政治権力と支配です。彼らは病気なの、それが理由だ。

 

トランプ大統領:我々が勝利すれば、彼らの腐敗した統治は幕を閉じ、米国の明るい新たな未来に日が昇る、それが我々が持たなければならないことだ。

 

トランプ大統領:しかし、ご覧のとおり、我が国のこの素晴らしい解放に近づけば近づくほど、バイデン政権による我が国に対する邪悪な迫害はますます絶望的になってきています。彼らはますます暴力的になりました。スターリン主義者は、ジョー・バイデンの命令で裁判が行われていると見せかけ、私たちの政府システムだけでなく、何百年にもわたる西側の法的伝統に火をつけ、彼らは法律、判例、正当な手続きを、熱狂的な暴徒で置き換えた。裁判官、陪審員、検察官、死刑執行人を装った急進左派の民主党パルチザン。それが彼らなのです。

 

>>131914 「起こるはずのない選挙で私が勝ったので彼らは私に腹を立てている」 - Q+ 通信の 5 年間の差分

 

DJT「この人たちは誰も聞いたことのない言語を話している」

 

トランプ大統領:私が就任すると、我が国の兵士たちはISISを徹底的に叩きのめし、偽テレビ将軍からISISを奪い取った。我々には偉大な将軍がいるが、ミリーやテレビに出てくるような将軍は違う。偽物だよ。

 

DJT: オバマが私たちの国を動かしていると思っている人たちがいます。

 

DJT: 私の叔父はとりとめのない話をしていましたが、私のようにとりとめのない人はいません。誰もこれを行うことはできません.. (台本とは異なります) これは彼らを怖がらせます。

 

トランプ大統領: 私たちには世界で最も優れた法執行機関の人々がいますが、彼らはその職務を遂行することを許可されていません…シカゴは1日で解決できるでしょう。ニューヨークなら半日で解決できる。

 

Djt: 彼はとりとめのない話をしました、いや、それは完全に天才です。

 

トランプ大統領:この不正選挙で私が追い出されるやいなや、バイデンは制裁を解除し、イランはこれまでに見たことのないレベルに戻りました。彼らがこれまでにやったこと以上に。そして今、彼らはとんでもなく裕福です。彼らは石油を誰にでも売っている…彼らはとても豊かな国だ。私の場合、彼らは破産していました。彼らは一文無しだった。

 

トランプ大統領:彼らには水がない。彼らはビバリーヒルズの人々に、水は40ガロンしか使用できないと通知しています。彼らには水がありません。ちなみに水はたくさんもらえるので用意しておきました。連邦政府の承認はすべて完了していた。彼(ニューサム)がしなければならなかったのは、小さな紙切れに署名することだけだった。そして私は彼を二度とそのことで逃がすことはしません。彼は一枚の紙に署名しなければならなかった、そうすれば北から水が降り注ぐんだ。カナダから降り注いているんだ。ご存知のように、それは人工的な静脈もあれば、水が降り注ぐ自然の静脈もあります。彼らはこの水を汲んで太平洋に送ります…小さな小さな魚を守るために、そして人々には水がなく、農地は不毛です。

 

DJT;私たちはアメリカを再び偉大にします

 

終わり

 

 

Anon, Thank you for your great work!

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:18 p.m. No.132882   🗄️.is 🔗kun   >>3143

Originally posted at >>>/qresearch/20474409 (251314ZFEB24) Notable: アーカイブ - 2024年2月24日のCPACでトランプ!!/「起こるはずのない選挙に勝ったので、彼らは私に腹を立てている」 - Q+通信 5年のデルタ

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>>132881

 

リンクミス訂正します

 

>>131914

「起こるはずのない選挙に勝ったので、彼らは私に腹を立てている」 - Q+通信 5年のデルタ

 

Q+の証明

 

数分前の大統領

"私が起こるはずのない選挙に勝ったので、彼らは怒っている"

 

2885

2019年02月24日 13時12分51秒 EST

Q !!mG7VJxZNCI ID:b3258f No.5362124

まさか悪徳ヒラリーが負けるとは思わなかった。

多くの悲惨な間違いを犯した。

国民に権力を取り戻す

Q+

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:19 p.m. No.132883   🗄️.is 🔗kun   >>3142

Originally posted at >>>/qresearch/20476708 (260004ZFEB24) Notable: 陸自、インドで対テロ共同訓練

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陸自、インドで対テロ共同訓練

2024年02月26日

 

陸上自衛隊とインド陸軍による毎年恒例のテロ対策共同訓練「ダルマ・ガーディアン」が25日、インド西部ラジャスタン州で3月9日までの日程で始まった。訓練は今年で5回目で、両国の防衛協力強化が狙い。

 

https://www.jiji.com/amp/article?k=2024022600134&g=int

Anonymous ID: 8de03d Feb. 26, 2024, 7:19 p.m. No.132884   🗄️.is 🔗kun   >>3142

Originally posted at >>>/qresearch/20476757 (260018ZFEB24) Notable: 宝塚歌劇団 運営の親会社 角和夫会長が理事退任で最終調整

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宝塚歌劇団 運営の親会社 角和夫会長が理事退任で最終調整

2024年2月26日

 

宝塚歌劇団に所属する25歳の劇団員が死亡した問題をめぐって、歌劇団を運営する阪急電鉄の親会社「阪急阪神ホールディングス」の角和夫 会長が歌劇団の理事を退任する方向で最終的な調整を進めていることが関係者への取材で分かりました。

去年9月、宝塚歌劇団の宙組に所属していた25歳の劇団員が兵庫県宝塚市で死亡しているのが見つかりました。

 

歌劇団は、去年11月、長時間の活動などで強い心理的負荷がかかっていた可能性は否定できないとする一方、いじめやパワハラは確認できなかったとする調査報告書の内容を公表しましたが、遺族側の代理人弁護士は上級生らからのパワハラなどがあったと主張していて、両者の間で協議が続いています。

こうした中、歌劇団を運営する阪急電鉄の親会社、阪急阪神ホールディングスの角和夫 会長が歌劇団の理事を退任する方向で最終的な調整を進めていることが関係者への取材で分かりました。

理事会は歌劇団の役職者や演出家ら10人で構成され、運営方針などを決めていて、角氏は、2014年3月から10年にわたって理事を務めてきました。

角氏は去年12月、劇団員を養成する宝塚音楽学校の理事長を退任していて、近く、学校の理事についても退任する見通しです。

歌劇団側は、組織の管理体制にも問題があったことを遺族側に対して認める方針で、角氏は、その責任を取る意向だということです。

これによって角氏は歌劇団の運営から退く形ですが、遺族側への対応や歌劇団の組織風土の改善などには引き続き関わっていくとみられます。

 

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240226/k10014370501000.html

Anonymous ID: 8de03d Feb. 27, 2024, 1:02 a.m. No.133140   🗄️.is 🔗kun

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能登半島地震 BUN

>>132285 「何かしなければならなかった」 トルコ人ボランティアが能登半島地震被災者に食事を提供

>>132287 天候悪化、捜索厳しく 死者94人、安否不明222人―断水、停電解消せず・能登地震

>>132288 在日米軍「支援」を日本と調整 能登地震で米国防総省

>>132289 被災地でコロナ感染「増えている」 能登半島地震、支援の医師が危機感「隔離できない状況」

>>132290, >>132291, >>132292 北川啓介教授が能登半島地震の被災地へ屋内用インスタントハウスを届けました

>>132293 岸田首相、仮設住宅の建設準備を指示 能登半島地震

>>132294 輪島市で大規模地震を想定した防災訓練(2023年10月15日)

>>132295 大雨と地震の複合災害を想定 石川県防災総合訓練 約1万6000人が参加

>>132296 志賀原発の事故想定し防災訓練、1700人が参加(2023年11月24日)

>>132298 金正恩氏が異例の見舞いメッセージ、林官房長官が「感謝の意」…返信は「答えを控える」

>>132299 能登地震の偽投稿、総務省がXなどプラットフォーマー4社に対応要請

>>132300 【能登半島地震・360度動画】被災した輪島・朝市通り

>>132301 【能登半島地震・動画ルポ】穴水町・能登町・珠洲市の被害は

>>132308 昨夜の震度6弱 “石川 志賀町の地震計に異常見られず”気象庁

>>132309 2318人孤立状態 輪島13地区に1700人以上 能登半島地震

>>132310 【能登半島地震】道路が沈み、家が傾く 新潟市西区で多発「液状化現象」 なぜ発生したのか《新潟》

>>132312, >>132314 ヘリよりも最大速度、積載量、航続距離に優れ災害救援活動に最適として日本が購入したオスプレイは米軍が去年12月に全機飛行停止命令

>>132316 令和6年能登半島地震 丸1週間たっても震度3以上の地震続く 震度5弱以上は15回

>>132317 陸自UH60ヘリを能登地震で投入 昨年の墜落事故後、初の任務飛行―防衛省

>>132318 地震で孤立した地域にドローンで薬を配送 石川 輪島

>>132319 能登半島地震、予備費から47.4億円支出 政府が物資供給

>>132320 能登半島地震の避難所にスターリンク提供 KDDI、無料で利用可能

>>132321 能登地震で道路寸断、救助・支援阻む 石川県35路線復旧せず

>>132352 自衛隊「逐次投入」に批判も 地理条件で規模制約、任務は拡大―能登地震

>>132361 医療の優先順位「どうなっているか聞きたい」 “逼迫”懸念に馳知事 やけどの5歳男児…搬送されず数日後に死亡か

>>132380 能登で活躍「トイレトレーラー」で見た深刻な現場 上水道が止まり状況は最悪、災害関連死を防げ

>>132403 岸田首相 被災地視察 生活再建へ新たに1000億円超の支出を決定

>>132426 石川 奥能登地域 多くの酒蔵が全壊 日本酒製造できず/石川「輪島塗」生産再開見通せず “ほぼすべての職人が被害”

>>132432 防犯カメラ約100台設置へ 被災地での犯罪対策に(2024年1月17日)

>>132433 在日米軍、被災地支援は「日米の友情の絆を強化するものだ」…17日からヘリで物資輸送

>>132435, >>132442 輪島の被災中学生異例の集団避難 258人が親元離れ、想定2カ月/輪島市内で約250人の中学生が集団避難、端末を無償貸与=林官房長官

>>132484 【視点】より大型の地震の前触れの可能性 石川県・能登半島地震について=ロシア人研究者

>>132524 馳浩石川県知事が初めて輪島市と珠洲市を視察 能登半島地震

>>132527 能登地震の避難所利用者、Suicaで把握 デジタル庁が配布へ

>>132528 陸上自衛隊:令和6年能登半島地震に伴う 災統合任務部隊 JTF遊撃隊は、輪島市孤立集落住民の2次避難所までの移送支援に先立ち、#UGV(Unmanned Ground Vehicle)の操作訓練を行うとともに使用予定避難経路上の偵察等を行い、避難者の安全な誘導支援を行いました

>>132529 被災地に約1000台の防犯カメラ設置へ 警察庁

>>132576 能登半島地震、2次避難所での食事があまりにも…疑問の声「中抜きされてる?」「単に栄養補給じゃないのに」

>>132578 能登半島地震避難者のインフルワクチン接種、無料実施へ 武見敬三厚労相

>>132606 輪島の仮設住宅を公開 能登地震後に初完成、3日入居

>>132713 能登半島地震 ボランティア向け 破傷風ワクチン無償提供開始 @東京TMSクリニック & 新宿クイッククリニック

>>132715 令和6年能登半島地震に対する緊急災害支援金募集クラウドファンディング、日本赤十字社へ第一弾の送金を実施

>>132862 岸田首相 復旧・復興加速で予備費から約1000億円追加支出へ

 

FINAL

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ワクチン BUN

>>132339 イーロン: 最高裁がバイデンのワクチン接種命令を破棄するまで、彼はワクチン未接種の職員を全員解雇するよう要求しようとした

>>132347 2015 年 5 月の復習: 「ビル・ゲイツ、世界的パンデミックにより 3,300 万人が絶滅する可能性があると懸念」

>>132360 新型コロナウイルス 初めての『国産ワクチン』接種スタート 新潟県長岡市

>>132420 Covidワクチンが実験用ネズミに「自閉症」を引き起こす、研究結果

>>132476 「子宮頸がんワクチン」一斉提訴から8年目にして健康被害を訴える女性たちに法廷で直接“尋問”…全国初

>>132507 変化を繰り返す新型コロナウイルス 次世代型ワクチンが感染予防の一助に 国産の製造拠点が福島県に誕生

>>132578 能登半島地震避難者のインフルワクチン接種、無料実施へ 武見敬三厚労相

>>132609 コロナワクチン健康被害の申請1万件超に 20代以下の認定も1千件以上

>>132610 国産ワクチン開発へ 合同シンポジウム 大学など研究機関参加

>>132635, >>132639 ラーム・エマニュエル: 準備は万全です。米疾病管理予防センター(CDC)の東アジア・太平洋地域事務所が、ここ東京に2月5日に開設されると発表されました/米CDC 東京に事務所を開設 “世界の安全保障にとって重要”

>>132640 Hib感染症を加えた「5種混合ワクチン」 4月から定期接種へ

>>132681 声を上げたコロナワクチン被害者_イスラエル(動画)

>>132713 能登半島地震 ボランティア向け 破傷風ワクチン無償提供開始 @東京TMSクリニック & 新宿クイッククリニック

>>132725 HPVワクチン周知 新年度、群馬県が強化 動画やSNS活用中学生ら接種促す

>>132726 子宮頸がんワクチン男性も助成を 長崎大生が市に要望 罹患率ワースト上位受け

>>132727 「妻なのに分からないんだ…」 亡くなった夫の検視結果を開示請求するも“黒塗り” 「ここまで消してはいけないんじゃないの」ワクチン接種6日後に夫が急死

>>132747 コロナワクチン忌避に陰謀論が関連

>>132757 子宮頸がんと予防ワクチン知って、ノートルダム清心中で授業 広島市西区

>>132758 京大発新興、米ファイザーと提携 mRNA技術で新薬開発

>>132807 豊田通商、遠隔地にワクチン ガーナで挑む医療充実

>>132855 アストラゼネカの現在のCFOが赤十字社の理事会のメンバーであることをご存知ですか?

 

FINAL

Anonymous ID: 8de03d Feb. 27, 2024, 1:03 a.m. No.133142   🗄️.is 🔗kun

Originally posted at >>>/qresearch/20482399 (270705ZFEB24) Notable: 日本政府/日本時事 BUN

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日本政府/日本時事 BUN

>>132297 防災の日 首都直下地震を想定して政府の総合防災訓練(2023年9月1日)

>>132303 自民・池田佳隆衆院議員を逮捕へ…安倍派から還流の4800万円不記載疑い

>>132311 NATO基金に約53億円拠出と上川氏

>>132315 東京・目白台 旧田中角栄邸の敷地内で火事 ポンプ車など19台で消火活動中

>>132338 「8000万人国家」で成長力確保 民間提言、2100年目標

>>132351 富士通幹部に証言要請 郵便局会計ソフト冤罪事件―英下院委

>>132353 北欧と海洋・安保で協力強化 中ロの北極海進出に対抗―上川外相

>>132354 自民 麻生副総裁が米高官と会談 岸田首相の訪米成功へ連携確認

>>132355 田久保忠衛氏が死去、90歳 日本会議会長、改憲訴え

>>132356 ウクライナ復興支援へ 自社技術生かし乗り出す日本企業相次ぐ

>>132358 上川外相とスウェーデン外相 ウクライナ支援継続へ連携で一致

>>132359 麻生氏「台湾有事許さず」米国で訴え 米韓TPP参加提案

>>132391 ネット中傷防止へ法改正、通常国会提出視野 村井副長官

>>132392 東京・中野区で陸自駆り出し「ミサイル避難訓練」なぜ実施? 能登有事の真っ最中にやっている場合なのか

>>132393 日大元理事長の田中英寿さん死去 77歳 相撲部で活躍、脱税で有罪

>>132400 指定暴力団「浪川会」の総裁らを逮捕 会社設立のときに“うその届け出”をした疑い

>>132401 台湾海峡の平和重要 日米外相、首相訪米で連携

>>132402 愛媛・四国中央市のスターバックスで銃撃か、男性1人が心肺停止…撃ったとみられる男は逃走中

>>132408 林官房長官、台湾総統選巡る中国の抗議に反論 「台湾は重要なパートナーで友人」

>>132412 2024年に日本の初打ち上げで偵察衛星を軌道に投入

>>132417 ボーイング 737-800 型機のコックピット窓に空中で亀裂が発見され、旅客機が日本に帰国しました

>>132424 韓国軍は、北朝鮮が再び弾道ミサイルを日本海に発射したと発表した

>>132427 自民谷川氏、長崎県連会長を辞任 特捜部、裏金事件で捜査

>>132431 安倍派「裏金」事件、幹部7人を不起訴へ 東京地検

>>132436 共産・志位氏、退任の意向 後任は田村氏有力―午後に新体制決定・党大会

>>132437 自民・麻生氏、訪米時にトランプ氏側と接触 大統領選視野にパイプ構築

>>132438 非常時、国が自治体に必要な指示 自治法改正案の概要判明

>>132441 トマホーク400発、2540億円で契約 半数を性能が劣る旧型にして導入前倒し

>>132443 自民・安倍派が解散へ 党内最大派閥 政治資金パー券問題

>>132483 愛子さま、日本赤十字社の嘱託職員に 4月から勤務

>>132486 「50歳」でも新人予備自衛官補に… 防衛省が採用年齢上限「34歳未満」からの大幅引き上げを発表

>>132497 都内に国内最大ホワイトハッカー集団の拠点

>>132498 末松参院予算委員長が辞任へ

>>132506 子ども食堂、過去最多9131カ所 全国の公立中学校の数レベル 全47都道府県で増加 社内表彰の賞金で75万円寄付した女性も 広がる支援の輪

>>132513 東京都がミサイル攻撃に備え「地下シェルター」…麻布十番駅に整備方針、長期避難も視野

>>132514 岸田首相、4月10日に国賓待遇で訪米 米政府発表

>>132515 青葉真司被告に死刑判決 36人を殺害 京アニ放火殺人事件

>>132518 保育園で就寝中の女児の下半身を触り撮影などの容疑 元保育士の男(54)を逮捕

>>132548 東京と神奈川で震度4の地震 東京湾震源、津波心配なし

>>132557 暴力団の資金源か…不法就労助長で暴力団組長ら3人逮捕 外国人を解体工事現場などに派遣

>>132558 SOMPO桜田氏、引責辞任

>>132568 "ミス-ジャパン"としてのウクライナのモデルの戴冠は、アジアにおけるリベラル-グローバリズムの広がりを示しています

>>132573 日・独物品役務相互提供協定(日独ACSA)への署名

>>132579 「地震のような大きな揺れが数秒あった」 火力発電所で爆発 けが人なし ボイラー施設の13階部分から黒煙が上がる

>>132580 自民党安倍派の政務官2人が辞任へ 政治資金問題で

>>132581 SMBC日興証券、新社長に吉岡専務 社長と会長は退任

>>132583 関電・中部電など大手電力8社が最高益 料金値上げと燃料費下落で

>>132584 公明・北側副代表、緊急事態の改憲条項「党として検討」

>>132587 日英によるウクライナへの共同軍事支援計画が頓挫、英国側が断念=米紙

>>132588 トヨタグループで相次ぐ不正

>>132598 海自、米軍が共同演習 米空母3隻が日本周辺に集結

>>132599 NHKの森下経営委員長が退任 今月末に任期満了

>>132608 東京都、3月にコード決済で10%還元 4つのペイで還元上限各3000円

>>132626 ウクライナ復興会議に200社超 政府、渡航制限の例外措置も

>>132635, >>132639 ラーム・エマニュエル: 準備は万全です。米疾病管理予防センター(CDC)の東アジア・太平洋地域事務所が、ここ東京に2月5日に開設されると発表されました/米CDC 東京に事務所を開設 “世界の安全保障にとって重要”

>>132636 安倍洋子さん死去、95歳 晋三氏母「政界のゴッドマザー」

>>132637 「日米、台湾有事を想定した仮想訓練で初めて敵国に『中国』明示」

>>132638 米新興企業、日本でCO2回収 都市ガスや建材に再利用―脱炭素を支援

>>132648 2023年の実質賃金が1990年以降で最低水準を更新、マイナス幅は前年より更に拡大

>>132650 岸田首相、イタリアのメローニ首相と会談…G7サミットに向けて「日本との引き継ぎ重視を歓迎」

>>132651 日本の大学生の5人に1人が子どもを望んでいない:調査

>>132661 「北海道全体を一つの仮想データセンターに」知事が講演

>>132662 KDDIがローソンにTOB、三菱商事と共同経営へ…デジタルや通信活用し店舗の次世代化図る

>>132663 伊藤忠、イスラエル軍事企業とのMOU終了 防衛装備品の輸入

>>132678 ユネスコ通じ 日本が文化財保護などウクライナ支援へ 署名式

>>132679 輸入相手国への投資促進 農業基本法改正案判明

>>132682 東京電力、福島第一原発の水漏れは「市民へのリスクなし」 IAEAに報告

>>132697 「鬼畜の所業」「人生を破壊」判決が最大級の言葉で糾弾 娘(12)に性行為強要の父親、求刑上回る懲役20年の判決 

>>132698 「性的欲求を満たすためにやった」埼玉県の中学教員を懲戒免職処分 教え子の男子生徒の裸を盗撮したとして逮捕・起訴

>>132714 政府、ドローンの5G利用解禁へ 24年度、用途拡大に期待

>>132732 「公用語を英語にするべき」と吉村知事 大阪公立大の国際競争力強化 春入学廃止・全学生が秋入学へ 課題は入試と就職

>>132733 ダイハツ 奥平社長と松林会長が退任へ 認証取得の不正問題受け

>>132740 ロシアとの対話のために日本は敵対政策を見直すべき=ロシア外務省

>>132741 日本企業のキーウ渡航容認 ウクライナ復興で最長1週間

>>132748 トイレ1カ所に2億円!「大阪万博は全てデザイナーズトイレ」で、また税金が消えていく

>>132749 内閣支持16.9%、最低更新 不支持初の6割台―時事世論調査

>>132759 自衛隊制服組トップが入院 吉田統幕長、過労で発熱―防衛省

>>132767 仏で保管のプルトニウム 九州電力と四国電力の原発で利用へ

>>132780, >>132781 資産運用特区に4地域申請 札幌・東京・大阪・福岡

>>132786 「蘇民祭」千年の歴史に幕 高齢化で担い手不足 岩手・奥州

>>132787 ネット賭けマージャン 会社員ら逮捕 オンラインカジノ運営で初

>>132795, >>132797, >>132798 日本のウクライナ支援の鍵は民間セクターの参加/ウクライナ復興、ビジネス往来促進 56の協力文書/日本とウクライナ企業をマッチング、国連開発計画局長

>>132796 防衛費43兆円ではやっぱり足りない? 防衛省の有識者会議、初会合でいきなり増額論「タブー視するな」

>>132799 東京ミネルヴァ、25億円不正流用 弁護士会が除名処分

>>132805 麻生太郎氏、経済安保政策「米大統領選が左右」

>>132806 鈴木財務相 “G20出席難しい” 新年度予算案の国会審議優先で

>>132822 宮内ソフトバンク会長が退任 孫氏と通信事業育成

>>132823, >>132853 核物質密輸未遂で日本人の男起訴と米地検

>>132828 ENEOS系、またセクハラ=グループ企業の会長解任

>>132829 オイシックス会長が辞任 「放射能汚染水」投稿で

>>132852 日本を拠点とする首席兵曹をスパイ容疑で起訴

>>132883 陸自、インドで対テロ共同訓練

>>132884 宝塚歌劇団 運営の親会社 角和夫会長が理事退任で最終調整

 

FINAL

Anonymous ID: 8de03d Feb. 27, 2024, 1:04 a.m. No.133143   🗄️.is 🔗kun

Originally posted at >>>/qresearch/20482400 (270706ZFEB24) Notable: ドナルド・J・トランプ大統領 BUN

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ドナルド・J・トランプ大統領 BUN

>>132286, >>132332, >>132333 アーカイビング - トランプ、アイオワ州で2024年最初の集会を開催 党員集会に参加する!!!

>>132302 トランプ大統領、アイオワ州メーソン市での党員集会でコミット

>>132313 エプスタインに関するトランプ大統領とクリントンの比較

>>132329 DJT: The Best Is Yet To Come!

>>132330 エリック・トランプ : トランプのホテルは外国政府から得た利益をすべて米国財務省に寄付していた

>>132331 27人の司法長官がドナルド・トランプの連邦最高裁への上訴を支持する連合を結成した

>>132335, >>132336 アーカイブ - アイオワ州メイソンシティでの第 2 回トランプラリー、2024 年 1 月 5 日

>>132337 DJT on J6: 「平和的かつ愛国的にあなたの声を届けてください」

>>132340, >>132341 トランプ大統領、内戦を避けるために2020年の選挙後に立ち去ったことを示唆

>>132342 トランプが聴衆の誰かにペンを投げた|Qpost #481 delta w/ Pen

>>132343, >>132344 アーカイブ - 1 月 6 日に 2 つのトランプ 集会が開催され、最初の集会はアイオワ州ニュートンで開催されました !!

>>132345, >>132346 2024年1月6日、アイオワ州クリントンでのトランプ第2回集会をアーカイブする!!!

>>132349 (2012 年 10 月 8 日) DJT: 変質者に捕らえられた行方不明の子どもたちを何とかしなければなりません - 迅速な裁判、死刑

>>132350 英国が極秘「トランプ文書」を収集中 - 報道

>>132363 トランプ大統領、特別検察官ジャック・スミスとの対決で、選挙詐欺事件での訴追免責を主張するためDC裁判所に出廷へ…

>>132369, >>132370 トランプ大統領の資格を剥奪する取り組みの背後にいる人々には共通点がある

>>132372 DJT のTruth- 大統領に免責特権が与えられなければ、退任するすべての大統領は即座に、敵対する政党から起訴されるでしょう。完全な免責特権がなければ、米国大統領は適切に機能することができない!

>>132373 ドナルド・トランプを2024年選挙の投票用紙から削除させるために各州で訴訟を起こしていた男が、IRSに17セットの虚偽の税務書類を提出した容疑で逮捕・起訴された

>>132374, >>132375 FOXタウンホールでのトランプ

>>132376, >>132377 トランプ、QAnon陰謀論ムーブメントについて語る - 2020年

>>132404, >>132406, >>132407, >>132429 アーカイブ - 2024年1月14日、アイオワ州インディアノーラのトランプ!!!

>>132405 トランプJr.、ウクライナ紛争終結の「唯一の方法」を示唆

>>132411 ドナルド・J・トランプ氏がアイオワ州デモインでアメリカに対するビジョンを語る - 2024 年 1 月 13 日

>>132416 トランプ通信のスレッド

>>132423 大統領 が参照した曲 (The Snake)

>>132428, >>132430 米共和予備選、初戦アイオワ州でトランプ氏勝利 

>>132434 アーカイビング - 週末をアイオワ州で過ごし、勝利を収め、義理の母の葬儀を欠席し、法闘争裁判のためにニューヨークへ行った後、トランプはコーカサス選挙の次のラウンドのために今夜ハンプシャーにいる!

>>132440 アーカイブ - 2024年1月17日、ポーツマス州ニューハンプシャー州のトランプ!!

>>132449, >>132452, >>132453, >>132454 ライブ:トランプ大統領、ニューハンプシャー州コンコードで演説 - 1/19/24

>>132463, >>132464, >>132465, >>132477 アーカイブ - 2024年1月20日、マンチェスターのニューハンプシャー州で今夜トランプラリーが開催されます!!

>>132474 トランプ大統領、広島・長崎の原爆投下を引き合いに大統領免責を要求

>>132475, >>132478 アーカイブ - ロチェスターでのトランプ集会 - 彼は午後7時か午前12時(GMT)にステージに立つ予定です!!!

>>132487, >>132488, >>132489, >>132490 アーカイブ - 明日行われるニューハンプシャー州投票前のトランプ最後の集会!!! 1/22/24

>>132495 LIVE: Election Night in New Hampshire at the Trump Campaign Watch Party - 1/23/24

>>132496, >>132499, >>132500 米共和予備選、トランプ氏2戦目も勝利 米報道

>>132547 LIVE: President Donald J. Trump Holds Caucus Rally in Las Vegas - 1/27/24

>>132590 トランプさん、大統領2期目の10の計画、腐敗の一掃(動画)

>>132649 トランプ氏が警告 第3次世界大戦はバイデン政権の終了前に始まりうる

>>132670, >>132693 トランプ大統領がTSに投稿したミーム

>>132687 LIVE: Election Night in Nevada from the Trump Campaign Watch Party - 2/8/24

>>132702, >>132704 LIVE: President Donald J. Trump Addresses NRA Members in Harrisburg, PA - 2/9/2

>>132712, >>132716, >>132717 LIVE: President Trump Holds a Get Out the Vote Rally in Conway, S.C. - 2/10/24

>>132746, >>132750 LIVE: President Donald J. Trump Holds a Rally in North Charleston, S.C. - 2/14/24

>>132760 トランプ氏、大統領選に勝利すれば、ウクライナをロシアとの交渉のテーブルに着かせることを計画

>>132779, >>132782, >>132783 LIVE: PRESIDENT TRUMP GIVES SPEECH AT SNEAKER CON PHILADELPHIA - 2/17/24

>>132785 トランプ氏がオリジナルのスニーカーラインNever Surrender(絶対あきらめない)をリリース

>>132800, >>132801, >>132804 トランプ大統領は、大統領就任初日である 2017 年 1 月 21 日に CIA を訪れました

>>132821 @realDonaldTrump: My REVENGE will be SUCCESS!

>>132830, >>132836, >>132837, >>132838 LIVE: Trump to Address Christian Broadcasters at NRB Convention - 2/22/24

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FINAL