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数年前の記事ですが

何かに繋がるかもしれないので。

 

2021年10月28日

 

https://www.tokyo-np.co.jp/article/139453

 

「サステナブルの源流はザビエル」 上智学院カトリック・イエズス会センター長【インタビュー】

 

上智大(東京都千代田区)が学校運営に直接関わる「学生職員」制度を今秋から始めた。建学の理念につながるサステナビリティー(持続可能性)を学生の視点から提案してもらい、気候変動など環境問題の取り組みを社会に発信するのが狙いだ。なぜサステナビリティーが建学の精神につながるのか。上智学院カトリック・イエズス会の李聖一センター長(66)は「日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの思いから上智大学は創立されました。持続可能性を追究することは上智の使命です」と強調する。

 

日本に根付くための「大学」という発想

問 上智大学は、「ミヤコに大学を」というフランシスコ・ザビエルの願いを実現するということが根本にあると言われています。なぜ「ミヤコに教会を」ではなく「大学」なのでしょうか。

センター長 この言葉は、ザビエルの書簡には見当たりません。彼の頭の中には、自分が学んだパリ大学があったのでしょう。

ザビエルは、マラッカで最初に日本人に出会ったとき、文化的に高い能力を持つ人だと認めました。そこで、日本で宣教するためには、ヨーロッパで学ぶ若い学生たちに日本を知らせ、キリスト教を広めたいという構想を手紙に書いています。そこで、足利学校を例として挙げ、坂東一の学校で、多くの学生が学んでいると紹介しているのです。

ザビエルはまた、延暦寺にも行こうとしました。ぜひともお坊さんたちと議論がしたいと。残念ながら入山できず、当時文化的に盛んだった山口に行くことにしました。

イエズス会には当時、2つの宣教方法がありました。アメリカ大陸やアフリカ大陸では、現地の生活を向上させることを第一にしました。農業指導を行い、自給できる生活を教えたのです。そのためには、スペインやポルトガルの商人たちから隔離する必要がありました。彼らは現地の人々から奪うことを目的としていたからです。商人たちとは距離を保って、自給自足の生活ができるようにしたのです。この方法をリダクションと言います。

もう一つは、日本や中国を念頭に置いた宣教方法です。インカルチュレーションと言いますが、高い文化レベルを示す国では、その国の文化を尊重し、その文化の中に入り込んで、その文化をより豊かにしていくということです。

ザビエルは、日本人の学ぶ能力、教養の高さに気づいていました。それゆえに、日本の文化に入り込むために、アカデミア、大学という発想が生まれたのです。

ザビエルは日本に2年半くらいしかいなかったので、その夢は実現できませんでしたが、その後に来た宣教師が成し遂げました。ヴァリニヤーノです。彼は、織田信長の保護のもとで安土にセミナリヨという学校をつくりました。また、日本人司祭を養成するために、大分にはコレジヨもつくりました。

織田信長は、本能寺の変によって天下統一の夢を断たれ、安土も混乱してしまったので、セミナリヨは、京都、有馬、長崎と転々とします。キリシタン大名の保護のもとで、存続することはできました。そんな中で、セミナリヨで学ぶ生徒たちをヨーロッパに派遣することもしました。遣欧天正使節がそれです。彼らは日本人として初めてヨーロッパ各地を周り、その文物を日本に持ち帰ることになりました。

 

 

インカルチュレーションによる宣教

問 ザビエルは栃木県にある足利学校について、「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」とインドのゴア宛ての書簡に書いていますが、孔子を、まつった儒教による足利学校のような大学をつくりたいという意味でしょうか。

センター長 当時の足利学校はどのような学校だったのでしょうか。この学校の歴史はとても古く、平安時代にさかのぼるという説もあります。学校として有名になったのは、鎌倉の円覚寺からお坊さんが招かれてからです。そこで学ぶ学生は一応出家しなければなりませんでしたが、仏教を学んだわけではありません。むしろ中国の学問、とくに孔子の教えを学びました。しかし、それだけではありません。土木も建築も学びました。さらには、兵法も学んだのです。ですから、彼らは学校を卒業して何になったか。軍師です。戦国大名に仕える参謀役になったのです。

イエズス会の宣教師たちは、日本人が好奇心に富んでいることを知りました。そのため、当時ヨーロッパで知られるようになった科学的な知識や地理学的な知識を伝えました。地球は丸いとか、世界地図を見せて、日本はここだとか。

日本人は科学的な知識を貪欲に取り入れます。明治にも多くの宣教師はやってきましたが、日本人が知りたかったのは科学的な知識でした。国を富ませるにはどうしたらよいか、経済の仕組みはどうなっているかとか。宗教的なことに興味はありませんでした。

江戸時代の学問もそうで、御用学問として、また藩校でも、朱子学が学ばれたと言われますが、もっとさまざまな学問が生まれ、学ばれました。孔孟思想を原典から学ぶべきだと言って古学(古義学)が、大和心を知るべきだと言って国学が始まります。外国との交流は限られていましたが、蘭学に興味を示す者もいました。医学、暦、算術、そして測量術など、いろんな学問に興味を持ち、深く学んだのだと思います。江戸時代の学問が基盤となって、明治時代に入っていくのです。

日本における宣教をインカルチュレーションという方法で行おうとするとき、ヨーロッパの新しい知識を伝えるということは意味ある発想だったと思います。遣欧使節がヨーロッパから持ち帰ったものの中にグーテンベルクの印刷機がありました。最初に印刷したものがなんだか分かりますか。平家物語だったのです。キリスト教の教えではありませんでした。これがイエズス会の宣教方法なのです。

それゆえに、江戸時代の禁教令のためにキリシタンはほとんどいなくなってしまいますが、明治になってイエズス会が再渡来し、大学を設立するのもその延長線上にあると言ってもいいと思います。