国策に翻弄された歴史 大企業のもうけの為
「秋田県はずっと国策に翻弄されてきた」――これは秋田にいる間にしばしば聞いた言葉だ。
秋田大には全国で唯一の鉱山学部があり、県内各所には鉱山の跡がある。明治になると「富国強兵・殖産興業」の国策のもと、阿仁銅山や院内銀山が官営事業となり、後に古河財閥に払い下げられた。また金、銀、銅が産出された尾去沢鉱山は、三菱財閥が開発をおこなった。大館市にあった花岡鉱山では、戦時中、強制連行された中国人が過酷な労働に耐えかねて一斉に蜂起し、そのなかで400人以上が死亡した。今では市主催の慰霊祭が毎年開かれ、中国から遺族も参加しているという。この歴史を県内の高校生が演劇にし、高校演劇大会で上演して感動を呼んだこともあったそうだ。
また、昭和の初めの大恐慌のときには、秋田県は娘の身売りが多かった。「秋田の娘がたくさん吉原(東京の遊郭街)に売られ、吉原に秋田県の専門店までできた」という。
秋田県から北海道に出稼ぎに行っていたという話もよく聞いた。秋田市の奥地に実家がある女性は、戦後、父親が夕張炭鉱に出稼ぎに行っており、その肩にはいざというときのために「北海道の北、炭鉱の炭」などの入れ墨が彫ってあったという。「農家の二、三男が口減らしのような形で北海道に出稼ぎに行っていた。でも、今は残った長男が農業で苦労している」と話していた。
漁師は北洋漁業に出稼ぎに行っていた。「北海道はサケ、マス、ニシンが大量に獲れる。だから秋田県や東北から出稼ぎに行き、そこに住みついたりする。先日、山登りに北海道の利尻に行って、一番ベテランの漁師を訪ねたら、その人が秋田県の金浦出身で、“秋田からよく来てくれた”と歓迎された」「民謡なんかも、本荘追分が北海道に伝わっている」
戦後の大きな出来事は、国策としておこなわれた八郎潟の干拓事業だ。琵琶湖に次いで2番目に大きな湖を埋め立て、近代的で大規模な米作地帯をつくるというふれこみの事業で、干拓は1957年に始まった。政府は5回にわたって全国から入植者を募集し、約600戸の農家が入植した。車で走ってみると、稲刈りを控えた金色の穂波がどこまでも続き、水平線まで見渡せる光景が広がっていた。
住民の一人は、「ここに全国から若者たちがたくさんやってきた。しかし、その直後に政府は減反政策に転換し、コメをつくるなといってきた。その結果入植者のなかで、借金が払えず自殺する人がたくさん出た」と話した。
さらに1960年代には、TDKの創業者で、自民党岸派の代議士となった斎藤憲三が、由利本荘市に原発を持ってこようとした。それが住民の反対で頓挫すると、今度は1990年代に、岩城町(現・由利本荘市)に三菱マテリアルが低レベル放射性廃棄物の処分場をつくろうとした。
「青森県六ヶ所村で低レベル放射性廃棄物が満杯になったため、秋田に持ってこようとした。そのために三菱マテリアルは約10万平方㍍の土地を買い占め、立派な島式漁港(防波堤で漁港前の海を島のように囲んで、波浪から守るようにつくったもの)や幅の広い道路までつくった。秋田県立大をつくったのもそれとのバーターで、国の金が入っている。秋田県立大の本荘キャンパスには、アイソトープに詳しい教授たちが入ってきた。しかし、チェルノブイリ原発事故が起こった後のことで、住民の反対運動が盛り上がり、町長が拒否宣言をして計画は頓挫した」
秋田県はこれまでさんざんに国策に翻弄されてきた。そして今度は、外資や三菱商事をはじめとする東京の大企業のもうけのために、洋上風力の実験台にされようとしている。しかも陸上の風力発電ですでに健康被害を訴える人が増えており、それに加えて洋上に150基以上も建てれば、秋田県沿岸で生活する約20万人の住民のなかで累積的影響として健康被害が広がりかねない。
秋田県山岳連盟の男性は、こう強調した。「秋田では、冬の北西の強風が常に海から沿岸住民に吹き付けて、半年は荒れる。洋上風力が建てば、この先数十年間は低周波音に囲まれた人体実験場になってしまう。“(秋田の洋上風力は)世界初の事業”というが、水俣病などの4大公害に続いて5番目の秋田風車公害といわれるような事態になるかもしれない。また、健康被害が多発しても責任のなすりあいとなり、もうけがないとわかれば事業者は撤退し、洋上風車は海の巨大残骸と化して孫子の代まで自治体が尻ぬぐいということにもなりかねない。この事実を多くの人に知ってほしい」。
「カーボンゼロ(脱炭素)」を掲げる政府は、2040年までに洋上風力を3000万~4500万㌔㍗導入する目標をうち出しているが、そのなかで地方がどのような扱いを受けているかを以上のことは示している。それは北海道や東北をはじめ、全国の地方都市にとっても他人事ではない。