災害関連死が増える理由 抗議して倒れる住民も
9月の豪雨災害後、輪島市内の中学校体育館に避難している輪島塗の男性職人(70代)は、市内中心部にあった自宅兼工房が元日の地震で全壊したという。崩れた家から家族4人で這い出して、避難所になっていた小学校に避難した。当時は電気も水もなく、家々から毛布を持ち寄り、石油ストーブを囲んで暖をとった。冷たい床の上に体操用マットやゴザを敷き、コンビニやスーパーも開いてないので町内で備蓄していた保存食を分け合った。「多いときで120人が身を寄せていた。カップラーメン一つを家族4人ですすり、乾パンをかじりながら、1月半ばに自衛隊の支援物資が届くまで耐えてきた」と語る。
「一番つらかったのはトイレ。凝固剤入りの簡易トイレの数がまったく足りず、1人1回使い捨てのものを5~10人が使ってから処分するしかなかった。とくに女性はつらかったと思う。汚物運びも水運びも動ける人が動いて、みんなが声をかけ合い、励まし合って避難所のコミュニティを作り上げた。それだけは誇りだ」と話した。
6月末にようやく仮設住宅に入れるようになり、ここまで一緒に支え合ってきた地域のコミュニティを壊さないように、できるだけ同じ場所にまとめて入れてもらえるように行政に要望したが聞き入れられず、「場所はバラバラになり、今は誰がどこにいるのかもわからない」という。
「私たち一家も7月半ばに仮設住宅が当たったが、そこはこれまでも何度も泥が流れ込み、土砂崩れの恐れが指摘されていた場所だった。案の定、9月の豪雨で床下浸水。泥が流れ込み、住めなくなった。結局、私たちは元日から小学校体育館で7カ月半過ごし、仮設住宅で3カ月暮らし、10月末にまた家族4人で体育館に入ることになった。行政はメンツもあって“12月末までには泥出しを終えて仮設住宅に戻れる”と説明しているが、進捗状況も知らされず、なんの確約もない。この調子では正月を体育館で過ごすことになるかもしれない…というのが、ここにいるみんなの率直な受け止めだ」と話した。
「残念なのは、行政のトップや幹部たちが避難所で住民がどんな暮らしをしているかを視察すらしないし、意見を聞こうともしないことだ。市議も一度も顔を見せず、若い職員だけが送られてくる。水もトイレも暖房もない避難所を住民みんなが力を合わせて運営してきたが、行政がどれだけ実態を把握していたかは不明だ。そんななか、副市長宅の隣家の緊急公費解体だけが最も早い時期に実施されていたことが報道された。馳知事も東京の自宅暮らしで住民の側にいない。そのような政治への反発が今回の選挙にあらわれた(能登を含む石川3区では自民党現職が小選挙区で敗北)と思う」と語気を強めた。
「1~3月の“お願いだから救援に来てくれ”という思いは行政や政治家への怒りになり、4~5月には怒りを通りこして、どうでもいい…という諦めに変わり、今は失望しかない。国や行政とはこういうものなのか。“住民に寄り添う”とは形式的にとり繕うためだけの詭弁なのかと」。
「みんな苦しんでいる。でも、それをどこにぶつけたらいいのか」――誰もがそう口にする。震災から長期の避難所生活を経て、ようやく入った仮設からまた避難所という苦難の連続のなかで、持病の悪化や精神的ストレスから急死する例が後を絶たないという。
「9月に仮設住宅が床下浸水に見舞われ、それから1カ月後の10月19日、市の住民説明会で“仮設住宅を清掃するので月末までに退去してほしい”と告げられた。わずか10日後だ。そのとき知人(74歳)が立ち上がり、“この場所は6、7年前から土砂崩れの恐れがあるから対応をしてくれと住民が要望してきた場所ではないか。それでも仮設を建設して、浸水したから10日足らずで出て行けというのは、あまりにもひどい扱いではないか”と訴えた後、その場で倒れ込み、その半月後に亡くなった。脳幹出血だった。寡黙な性格の人だったが、最期の力を振り絞ってみんなの怒りを代弁してくれたのだ」
「半年間、避難所で一緒に生活してきた42歳の男性が、10月半ば、仮設住宅のなかで孤独死していた。くも膜下出血だった。連絡がつかないから不審に思った職場の人たちが訪ねたら部屋の中で1人で亡くなっていたという。表には出さないが、みんな苦しんでいる。そんななかで今日も県の幹部がとり巻きを連れて避難所に視察に来たが、設備の配置だけ点検したら、住民に一言も話しかけることもなく帰って行った」
「まだ復興モードにすら入っていないのに、ほとんど能登のことが報じられることがなくなった。地元放送局や新聞でも申し訳程度に“今の能登”が特集されるくらいで、行政批判をしたら全カットされる。この避難所にいる人たちは、仮設に入りたい、家に戻りたいと思っている。地震で助かった家が浸水したり、自宅が全壊して仮設も水没した人もいる。精神的ストレスや孤独感が重なっているから関連死が増えているのだ。住民が必要としているものは、イベントや祭りの情報でも健康づくりの情報でもない。困っている人たちに寄り添ってくれる、安心させてくれる情報だ」
避難所では現在、朝食はパン、昼と夕食は弁当や炊き出しが提供されているが、寝床は畳一畳分の段ボールベッドで、もう一畳分のスペースを含めて目隠し用のテントで仕切られた空間で過ごしているという。25日現在、輪島市内11の学校や公民館に約300人が身を寄せている。
仮設水没し再び体育館へ 水害想定地域に建設
震災後に入った仮設住宅が水没し、現在、輪島市内の避難所で暮らしている62歳の男性は、「86歳の母親と暮らしていた自宅は地震で全壊。集団避難で白山市のホテルに5月半ばまで滞在し、ようやく入った仮設住宅も9月の豪雨で水没。胸まで水に浸かり、母親は警察官に背負われて輪島病院まで避難した。この避難所に来て2カ月になるが、12月末までに仮設住宅に帰れるのかどうかははっきりしていない」と力なく語った。
「自宅が全壊で家財道具がないので、仮設住宅に入るときに冷蔵庫、洗濯機、テレビを付けてもらい、企業からの支援で付与されたポイントでこたつ、電子レンジ、扇風機を支給してもらったが、今回の水害でそれもすべて失った。ふとんもなければ命にかかわる。要望したいことは、これらの家電やふとんを仮設住宅に入ったときの状態にしてもらうことだ」と控えめに語った。
宅田町の仮設住宅は市のハザードマップで浸水想定区域に指定されていたが、市は「他に場所がない」として142世帯を建設。ほぼすべての部屋が水没したが、再入居者に対する支援は、テレビ、冷蔵庫、洗濯機の購入に対する上限13万円までの補助のみ。「生活再建で貯金を使い果たし、年金だけでかつがつ生活している高齢者はどうすればいいのか…」と心配する声は強い。
同じく自宅が地震で全壊し、仮設住宅も水没した男性(70歳)は、「3カ月前、仮設に入居するさい、県職員に“増水して水害が起きる危険性はないのか”と問うと“前例がないから大丈夫だろう”といっていた。だが実際には9月の水害で、私たち家族3人で暮らす仮設も胸まで水に浸かり、命からがら避難して駐車場で車中泊した。妻の実家も土砂崩れの被害にあったため、現在は弟の家で間借り生活をしている。馳知事がメディアを連れて仮設へ視察に来たときに、“水害は予想されていたことではないか”と直接問いただしたが、テレビで放送時に全カットされた。それでも一部新聞に載ったため、県は“事前に住民に説明して了解をいただいている”といってごまかしている。一事が万事こんな調子なのだ」と憤りを込めて語った。
一緒に暮らしていた母親(90歳)は、水害前に入院して被災は免れたものの、その後、脳梗塞で他界したという。「心がおれて笑うしかない状態だが、幸いにも娘がそばにいて一緒に輪島に残って頑張るといってくれるから踏ん張ることができている」といった。
幼い子どもを持つ40代の男性は、「豪雨で家の裏山が崩れ、家屋が山から流れてきた土砂をせき止めている状態になり、とても住める状態ではない。だが市防災課に問い合わせても“準半壊”の扱いで、公費解体の対象(半壊以上)にもしてもらえず、仮設住宅や見なし仮設(借り上げアパート)への入居資格もない。全壊の方がよっぽどましだった。“地滑り地帯に住んでいるのが悪い”という論理で“雨が降ったら避難指示は出さないので自主避難してください”といわれた。今は妻と子どもとも一緒に住む家がないので、それぞれの実家に戻って生活している。市内では、仕事がある夫だけが残り、妻子は避難所や市外で暮らすバラバラ家族が多い。郊外の漁村集落では、交通網の寸断を機に手つかずのゴーストタウンになっている場所もあり、避難所にさえ入れない人もいる。輪島市内では家族で暮らせるアパートも少なく、このままでは輪島を離れざるを得ない。私たちの世代が輪島最後の世代になるのではないか」と話した。
また、道が狭い住宅密集地では、緊急公費解体が必要な家屋があっても、そこに行き着くための通路がなければ手が付けられない。「他人の家だが解体しなければいつ崩れるかわからないので、その通路を確保するために自分の納屋を手放すから解体するよう申し出ても、行政は“あなたの建物は一部損壊なので公費解体の対象外”の一点張り。あまりにも支出を出し渋る杓子定規な対応が、危険家屋の解体が進まない要因になっているのではないか」と指摘する声もある。
輪島市内では解体業者の数が圧倒的に足りず、自主解体や家の補修をしようにも大工は見つからない。瓦の修理にさえ手が回っていない家も多く、水害で家を失った人たちは、罹災証明書が発行されるのもこれからで、仮設住宅の完成は来年2~3月とされているほどだ。