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厳冬迎える能登被災地の叫び 家は土砂に埋まり断水も継続 半壊家屋や避難所で年越しも 震災1年・珠洲市の現状

 

2024年12月9日

 

(2024年11月29日付掲載)

 

地震と豪雨に見舞われた石川県奥能登。12月も間近になると気温はぐんと下がり、北風に乗って吹き付ける雨にもみぞれがまじる。海越しに見える対岸の立山連峰はすでに真っ白に雪を被っている。もうじき雪が降る――その気配が、地震からの復旧作業に携わる土木作業員、災害ボランティア、住民たちの気持ちを焦らせている。元日の地震発生から1年を迎えるなか、9月には豪雨災害が加わり、道路、インフラの復旧、住居の屋根の修理もままならず、そこに豪雪が加わればどのような不測の事態が生じるかもわからない。誰もが手探り状態だ。輪島市と並び震災と豪雨で大きな被害を受けた石川県珠洲市では、中心部の公費解体は比較的進んでいるものの、海岸線に点在する集落には手がついておらず、豪雨災害で壊滅的な被害を受けた地域の雪による孤立も懸念されている。本紙は輪島市に続き珠洲市の現状を取材した。

豪雪被害を想定した体制整備が急務

元日の地震で6000棟もの家屋が倒壊した珠洲市内では、8月段階に比べると倒壊家屋の公費解体が進み、進捗率は40%に達した。中心部でとくに被害が大きかった宝立地区や正院地区、蛸島地区などでは波打つように地面に屋根が連なっていた家屋群が解体され、家の区画だけ残して更地へと次々と姿を変えていた。

人々の暮らしがあった居住区は、更地のなかに手つかずの倒壊家屋やガレキの山が残るだけとなり、その荒涼たる殺風景は地震被害の甚大さを改めて感じさせる。そのなかで人々はようやく完成した仮設住宅に入居し、2年間の期限付きではあるが、次のステップに進もうとしていた。

だが、珠洲市でもコミュニティに必要な生業の維持と働き手の確保が大きな課題となっている。生活道路や歩道には、地震で隆起したマンホールが突き出ており、地盤が歪んでアスファルトは粉々に砕け、路面の凹凸は激しい。ダンプなどの大型車両が猛スピードで行き交うなか、子どもの安全を確保することが難しいため、幼い子どもを連れた世帯の多くは市外に避難し、残った子育て世帯も通学には親の送り迎えが必須となっている。

 

飲食店では市内4店舗が道の駅で仮店舗を開業したりしているものの、食料品スーパーはドラッグストア1軒だけで夕方は大混雑。商店街はほぼ休業で、数少ないコンビニも依然として午後7時には閉店するなど買い物をする場所が少ない。歯医者がなく、医者も少ないなどの問題も抱えており、これらの生活インフラが整わないことが居住人口の流出に拍車をかけている。

人口としては震災後約1000人が市外に転出しているが、住民票を残したままの避難を含めると若年世代を中心に流出者は相当数にのぼり、その実態は市も「把握できていない」という。その入れ替わりに作業員などの復旧従事者が流入しており、宿舎が足りないため解体前の個人宅を借りて寝泊まりさせる業者もある。

中心産業である第1次産業も、漁業は港湾や市場機能が損傷して水揚げが制限され、田畑も地震による被害が大きく作付けができていない。作業員が泊まる旅館業など復興需要の受け皿になっている業種もあるが、全体として通常の経済活動が回復していない。

飲食店を営む男性は「1月の震災では山側に避難し、集団避難で半ば強制的に金沢に避難して2カ月間過ごし、3月に帰ってきたが水は出ない。7月にようやく水道が復旧して9月からようやく店を開けることができた。地震の影響で風呂が今も使えないが、銭湯の無料サービスもなくなった。商売のうえでも、珠洲の漁港は破損して魚がさばけないため、隣の宇出津(能登町)の漁港に水揚げされた魚を仲買を通じて買っている。以前と比べて魚を仕入れるのも一苦労だ」と話していた。

自宅が全壊し、ようやく仮設住宅に入居できたという50代の男性は、「飲食店の一部は行政の補助を受けて再開したが、自己資金がない中小零細店はとても再開には至っていない。私が勤める宿泊施設でも食堂の再開ができず、雇用調整助成金でスタッフをつなぎ止めているが、これまでパートを含めて50人いたところが現在は7人。この体制では飲食の再開は難しい」という。

仮設住宅は1世帯に1申請限りなので、母親と2人暮らしで入れる仮設がなく、避難所生活でエコノミークラス症候群と診断された母だけを1人用の仮設住宅に入れ、自身は10カ月ずっと家賃を払いながら賃貸住宅で暮らしてきたという。市がデザイン性にこだわって有名建築家に依頼したため工費が上がり、大幅に完成が遅れた仮設住宅にようやく母子で入ったが、間取りは台所と4畳半が2間。2人暮らしでも手狭だ。「デザインにこだわるのはいいが2カ月も工期が延びれば、その間に住民はどこにいろというのか」と憤りは収まらない。

「友人の母親(87歳)はがんの療養中だったが、自宅が全壊して県外で避難中に亡くなった。珠洲市に残っているのもほとんど高齢者で、これからストレスによる災害関連死が増えてくるだろう。こんなときに豪雨災害が起きて、地震で家が半壊以上となった人たちのために建てた仮設住宅に空き部屋があるのに、水害で同じように家が壊れた被災者は入れてくれない。地震と水害で仮設住宅の予算の建て付けが違うからだ。この期に及んでまだそんなことをいっているのだ。水害被災者用の仮設住宅ができるのは来年3月。それまで水害で家が壊れた人たちは避難所や壊れた家の2階で暮らし、そこで正月も迎えなければいけない。市民目線で政治判断ができない知事も知事だし、市長も市長だが、国も“103万円の壁”や政治家の不倫問題を云々している暇があったら、さっさと補正で能登復興の大枠予算を付けるなり、制度を柔軟化させて被災者を救うべきではないか」と怒りを込めて語った。

また、別の男性も「県は無償ボランティアの募集ばかりしているが、なぜ地元の人間も含めて有償で雇わないのか。それならマンパワーも格段に拡充できるはずだ。ゼネコン下請けの解体業者も県外や外国人の作業員ばかりだが、業者関係者から“上から地元の人間を雇うなといわれている”と聞いて唖然とした。これから雪が降る。能登半島は外浦(日本海側)よりも内浦(富山湾側)の方が雪が積もる。昨年は年末にドカ雪が1日あったきり、元日の震災後にあまり降らなかったから助かったが、今年は雪が多いといわれている。山間部では一晩で1㍍も積もることもある。道路が波打っていたり、橋が割れ、歩道がぐちゃぐちゃに壊れているので、雪が積もれば子どもの通学や高齢者が買い物に行くのも危ない。最低限の安全が確保されるのかが心配だ」と不安を語っていた。

珠洲市役所に確認すると、能登半島中間の七尾から北端の珠洲市までの主要道路に整備されていた融雪装置(地下水を道路に流して雪を溶かす)が地震で全滅。市内では、橋梁も含めて27路線、36カ所で道路が土砂崩れや崩落で寸断しており、迂回路を含めて除雪を要する距離は通常よりも長くなる。

環境建設課の担当者は「避難や仮設入居などで住民が住んでいない居住区の道については区長と相談のうえで除雪をせず、例年通りの除雪車(75台)でなるべく効率的な機械除雪をおこないたい。地形の歪み、マンホールの隆起などを早急に補修する必要があるが、それでも道の平坦性に欠けるので除雪スピードが落ちる可能性がある。地震と豪雨で緩んだ崖が雪の重みで崩れたり、倒木などの被害が出る可能性もあり、手探り状態だ」ともらす。仮設住宅の除雪なども加わるためマンパワーが不足する可能性は否めないが、「時間がかかっても安全な道路の確保につとめたい」と話していた。

市役所には現在、県内外の自治体から約90人の応援職員が中長期的に派遣されているが、震災直後には国から派遣されていたリエゾン(国との調整役として内閣府や省庁から派遣される職員)は1人もいないという。危機感を募らせる住民と「なるようにしかならない…手探りなのだから」という行政との間に空気感のギャップは否めない。

ただ、「人口減を考慮した集約化」を提唱する国の方針に沿って、この災害時に学校の統廃合(市内の小学校6校を1校に統合)などの集約化を進める輪島市と違い、珠洲市では学校や行政機能の集約化はせず、分散した現存集落を再生させる方向で復興計画を進めているという。「故郷を守りたい」「住み続けたい」という住民意志がそれだけ強いのだ。

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断水が1年間継続 大谷地区の惨状

 

珠洲市の山あいや海岸沿いの集落は、9月の豪雨災害で甚大な被害が上乗せされ、8月段階と比べても被害の度はさらに深刻なものになっていた。

地震で孤立状態になった珠洲市北端の大谷地区(震災前人口約1000人)では、9月豪雨によって地震で緩んでいた岩盤や山肌が一気に崩れ、一山分ともいえるほどの大量(5万立方㍍)の土石流が何軒もの家々を呑み込んだ。現場では今も家の2階部分の軒先まで土砂や倒木が堆積しており、手作業では施しようがない。雨でぬかるんだ土砂は、不用意に足を踏み入れるとズブズブと膝まで沈む。

ようやく土砂に埋まった道路が啓開され、車が走れるようになったが、道の脇に積み上げられた土砂は高さ3㍍の巨大な壁になっていた。地震では被害がなかった家も土砂が流れ込み、「もうここでは住めない…」と出て行った住民も少なくない。

珠洲市内と繋がっていた幹線道路(国道249号線)は地震で崩落し、唯一の迂回路は細い峠の山道しかなく、それもあちこちで土砂崩れや崩落を起こしており、車のすれ違いはおろかダンプカーがかつがつ1台通れるほどの道幅しかない。片側交互通行も数カ所ある。輪島方面に向かうトンネル入り口が土砂崩れで塞がり、海岸の岸壁も崩れて通れず、自宅や仮設を問わずこの地域で暮らす人々は通勤や通院、買い物も困難を極めている。

また大谷地区では、元日の震災以降、全域で現在まで断水が続いている。避難所にも上水道が通っておらず、豪雨災害も加わったため復旧のメドはついていない。NPOによっていくつかの給水スポットがもうけられているが、高齢者が毎日水をくみに来ることは難しい。そのため民間のボランティアが組織され、住民から要請があれば500~1000㍑のタンクを各家に設置し、井戸用ポンプと組み合わせて水圧を調整することで家の蛇口から水が出るようになった家もある。

 

民家に給水に訪れたボランティアに話を聞くと「9月の豪雨後、断水がさらに延びるということで県内外の有志で活動を開始した。現在は38カ所のお宅に毎日水を配っており、すべてが高齢者だ。雪が降れば道も凍結するため配ることができないが、それでも水は必要で、ボランティアがどこまでリスクを負ってやるのか思案している」という。行政は飲料用のペットボトルの水を避難所に届けて、各自がとりに来るように推奨しているが、それでは生活用水はまかなえない。

冷たい風雨が吹き付けるなか、屋外の給水所に設置された洗濯機で衣類を洗う女性たちの姿も見られた。「自分は金沢に避難しているが、息子が残っているから様子を見に来た。家の洗濯機が使えないから、見ての通り洗濯も一苦労だ。12月末までには断水は解消するとは聞いているが、実際はどうなるかわからない。もう心が折れそうだ」と話していた。

この地域では震災後の仮設住宅がまだ完成しておらず、12月半ばからようやく入居が始まるという。多くの住民がこの地を離れ、小学校の体育館に数十名が避難しているが、約100人が壊れた自宅で暮らしながら仮設住宅の完成を待っている。

両親と祖母の4人で暮らしている20代の男性は、「家は地震で中規模半壊し、雨漏りしていたが、屋根にはブルーシートを張って暮らしている。解体するかどうかは判断しかねている。仮設住宅もなかなか完成しなかったが、12月には入れることを信じて待ちわびている」という。

水道が使えないので自分たちで500㍑のポリタンクを家に設置して給水所から水を運び、風呂やトイレ、炊事、洗濯はできるようにした。簡易水道は地震で壊れ、市は年内までに水道本管を開通させるとしているが、本管から各家庭まで繋がる支管(本管から枝分かれした水道管)は地震後一度も水を通していないため、破損して漏水を起こす可能性があるのだという。

水が出ない大谷地区では現在も自衛隊が風呂を提供しているが、雨の日や風の日は中止となる。日本海に面しており、冬場は風の強い日が多く、風呂に入れない日も増えるが、無料の入浴施設に行くための市内行きのバスも週2回のみで1日1往復しかない。

「地震には耐えていた人も豪雨災害で心が折れて出て行った。この地域では私たち家族と高齢夫婦の2世帯だけ。自分は峠をこえた珠洲市内に職場があり、家が比較的被害が少なかったので、ここで生まれ育ったものとして働く場所があるのなら頑張ろうと思ってここに残っている。1年間も断水が続くとは思ってもいなかった。だが、これから雪が降り、仮設住宅に入れたとしても、そこから職場に通う峠の山道が寸断されたら身動きがとれなくなることが心配だ」と不安を口にした。

土砂が家半分まで迫っている自宅に1人で暮らす88歳の女性は「元日の地震で金沢の子どものところへ行って2カ月間アパート生活をしていたが、3月にここに帰ってきた。隣近所の人たちも戻るというし、水道は出なくても、電気が通って井戸水のポンプが動いたのが幸いだった。だが9月の土砂崩れで家が半壊となり、ここも解体対象だ。子どもたちは避難所(小学校体育館)で寝泊まりしながら泥かきのボランティアに出ている。私も昼間は避難所で食事をし、夜だけは自宅で寝泊まりしている。段ボールベッドでは休まらない。いずれ4人家族で仮設住宅に入ることになる」という。また「1カ月に1回、峠道をこえて飯田(珠洲市市街地)の病院と買い物に通うのだが、その山道は崖崩れしたり、たくさん土嚢が積んであって通るたびに恐ろしい。大谷に唯一あったスーパーも地震で潰れ、店も自販機も一つもない。子どもたちが一緒だからやっていける」と話した。

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大型補正予算の投入を ボランティアの声

 

大谷地区は500年続く揚げ浜式製塩の名所でもあり、海岸沿いにはいくつもの塩田や塩竃があり、今も昔ながらの製法で塩を生産している。NHK朝ドラ『まれ』の舞台になったこともあり、震災前は多くの観光客が塩づくりの体験に訪れていた。現在も小規模ながら製塩は続けているが、二つの災害によって住居を失ったり、道路が寸断したことでスタッフや従業員の通勤が困難になり、塩の販売も停止している。

製塩職人の男性は「職人もパートさんも不足して、職場に通える限られた人間で塩づくりを継続している。やはり道路の寸断や断水の影響が大きい。塩づくりの面では、海底隆起で直接海から海水を運ぶことができなくなった。この状態では当分観光も難しいだろう。雪が降れば30㌢は積もるので、その重みでまた山が崩れたり、道路が不通になる可能性もある。大谷は珠洲のなかでもへんぴな場所だから余計に後手後手になっている。能登半島そのものが石川県のなかでも端っこにあるため、県も国もこんなところにカネをかける必要性を感じていないのではないか。口先ばかりではなく本気を見せてもらいたい」と控えめに語っていた。

能登被災地に震災直後から救援に駆けつけている全国の災害ボランティアたちも、能登被災地の復旧に対する国や県の動きの遅さを口々に指摘していた。

「私たちは気象予報を見て豪雨災害が起きる可能性が高まると連絡をとり合って現場に駆けつけるが、能登の場合、掻き出した土砂の置き場さえもなかなか決まらなかった。遅い自治体では行政が渋って6月まで場所が決まらず、使っていない個人の土地や休耕田などに積み上げていくしかなかった。しかも、今でも地震被災地で出た土砂と豪雨災害で出た土砂は同じ土砂なのに置き場がわけられている。それぞれ管轄する省庁(環境省と国交省)が違い、予算の出所が違うからだ。そんなことのしわ寄せは全部被災者に行く」

「今年7月に山形県酒田市でも大規模な豪雨災害が起きて住宅が土砂に埋まったが、そのときは市が号令をかけて市内の公共工事を全部ストップさせてでも土木業者を被災地に集め、短期間で一気に土砂を搬出した。私たちボランティアが家々から出した土砂も道に運べば、業者が捨て場まで運んでくれるなどの連携もあった。トップの姿勢一つでまったく進捗の速度は違ってくる」

「馳知事は震災直後は“石川県に来ないでください”といい、9月の豪雨後には“ボランティアを大量に投入する”といった。ボランティアは自主的に来ているのであって知事の持ち物ではない。本来は土木業者を大量に投入すべきで、悠長に万博をやっている場合ではないはずだ。これほど人件費や物価が高騰しているなかでは予備費で前例踏襲の予算を組んでいたら間に合わない。国は大枠の補正予算を組み、地元が大胆な予算措置をできるように安心させるべきだ」

震災と豪雨という極限状況にある奥能登では、復旧が遅々として進まない一方、集約化や削減計画などの火事場泥棒的な「復興計画」が住民の頭越しで進行することへの危機感も聞かれる。出る杭は打たれる旧態依然の枠を破って住民みずからが復興の主体となろうと地域再生のためにボランティア組織を立ち上げる若者たちの動きもあり、能登を切り捨てる政治や役に立たない既存組織の外側で本気で故郷を建て直そうとする新しい芽も生まれている。

 

https://www.chosyu-journal.jp/shakai/32955